• Preparation for departure

出発準備

”出発準備”は 昭和20年8月12日の昼、B29が投下した焼夷弾で県立宮崎中学校の校舎とともに焼失してしまった。
中国(中支)から帰った、昭和15年•画箋堂(京都)で描いて、独立展に出品した。
いつかまた、召集がくるかわからない不安があった。
16年の夏、すでに中国からいっしょに帰った戦友は、また召集をうけて戦場に送られていた。
太平洋戦争が、この年の12月8日に始まった。
2回目の召集が、きたのは17年の夏であった。
(「わたしの戦争体験の記録展」のパンフレットより)

「戦争の時代のなかで」美校の願書をもらって準備をしていたら、召集でした。 招集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。 1937年(昭和12年)の7月でした。 父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない古里の風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。 輜重兵として中国を転戦し、’40年に除隊になりました。
私は再び京都に出て、今度は絵の具屋の画箋堂に勤めながら絵を描くことになります。 やがてアメリカとの戦争が始まり、‘42年から二度目の応召です。
画箋堂では、上村松園さんなどいろいろな絵かきさんへの注文の画材を届ける仕事が多かったですね。 そして、また須田先生との出会いがあるわけです。 (須田国太郎)
研究所に作品を持って行ったり、先生が画箋堂にみえたときに見てもらったりしました。 先生からオーケーをもらって、独立展に初入選したのが’41年(昭和16年)3月です。
兵隊と馬を描いた「出発準備」、私の戦争シリーズの原点とも言える50号の作品です。 中学時代に習った小池鐡太郎先生に「初めて入選しました」と宮中に送り、校長先生が校長室に飾って下さった。 ところがこの作品は、宮中と一緒に焼夷弾で焼けてしまいました。
私にとって、須田先生に出会い指導を受けたのが、何と言っても大きいのです。 先生の絵は、当時の描き方、構成も、肌もやり方も違っていて、いわゆる須田調といわれる独自な作品を描いていました。 私の体質に合っていたことも確かです。 おしゃれな絵は似合わないのです。
二回目の戦地は台湾でした。 在郷軍人のとき、運転免許を持っていることを書いたため自動車部隊でした。 しかし台湾では米国の攻勢のために、自動車は使えず、また馬と一緒に動きました。 最後の最後まで馬でした。 子供の頃も家に馬がいました。 中学一年ぐらいまででしたか。 後は牛でしたが、馬と私は切っても切れない縁があるのです。
(「私のなかの風景」木村麦より)

出発準備
1940-1941
1941.3 11回 独立美術協会展

画像作品は1976年にリトグラフ作品として同じ構図で作成したものです。 401×527

立命館大学国際平和ミュージアム、宮崎県遺族会館 所蔵

Project Details

  • 1976

  • 401×527

  • リトグラフ 3/10