作品解説

坂本正直 長女 所薫子による制作順作品解説 (Facebook アートスペースかおるより)

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2018年1月2日

坂本正直の誕生日、1月1日よりネット上の「坂本正直記念館」を立ち上げました。
遺された膨大な数の作品や資料を少しずつ揚げていきたいと思っております。よろしければ観て下さい。


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2018年3月3日

『坂本正直作品記念館』更新しました。 作品のご紹介
作品の上で、クリックして頂けますと作品が、拡大されます。
100号サイズがほとんどです。200号や300号などもあります。

莫愁湖─馬が見ていた
戦争•人間が人間を
クリークの月62-1


1945年8月 敗戦の日
病馬と病兵


絵の中に、そこの地の砂などを混ぜています。各地で亡くなった戦友や置いていくしかできなかった馬を弔っていたのかも知れないなと今頃になって、思います。
暗く黒い時代を経て『求法の旅』三蔵法師の旅行が絵の題材になり、亡くなった時には、まるで旅の僧が長い旅を終えてやれるだけのことをやったような穏やかな顔をしていました。
遺された作品と併せて資料類なども少しずつですがアップしていきたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。


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2018年8月9日

坂本正直記念館ホームページを更新いたしました。 坂本正直記念館
作品ページ右上の矢印 〉をクリックしていただきましたら次々と作品が出て参ります。
8月28日(火)午後3時より『平和への祈り』を開催いたします。詳細は下記をご覧ください。
「平和への祈り」開催のお知らせ

莫愁湖
莫愁湖
1977 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
戦死した輜重一等兵
戦死した輜重一等兵
宮崎県立美術館所蔵
1974 1,621×1,303 油彩•カンヴァス
戦争•人間が人間を
戦争•人間が人間を
1981-82 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


1945年8月 敗戦の日
1945年8月 敗戦の日
1983-85 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


【1枚目】軍歴マップ
【2枚目】宮崎県立美術館コレクション展にて現在別の所蔵作品が展示されています。9月24日までです。 宮崎県立美術館
【3枚目】坂本正直の作品には、加害の立場から描かれたものが多くあります。
【4枚目】敗戦の日、無駄になって破り捨てられた勲章と当時の新聞が軍靴とともに描かれています。


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2019年2月4日

2019年5月15日~26日宮崎県立美術館県民ギャラリー1.2開催に向けて2014年から撮りためた記録映像の編集をしています。その中の堀尾貞治さんの講話とその後をユーチューブにアップしました。是非、ご覧ください。

こちらは、同じ場所の野外でのパフォーマンスの様子です。
堀尾貞治さんということを少しも知らない、たまたま公園にいた子どもたちです。その子どもたちは今、何年生になっているでしょうか?その子どもたちの中に生き続けていることでしょう。


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2019年4月16日

「坂本正直‐平和への祈り‐」 5/15開催まで、
1か月を切りました。宮崎県の他に宮崎日日新聞社・NHK宮崎放送局の後援が加わりました。
皆さまのお越しをお待ちしております。 坂本正直‐平和への祈り‐

坂本正直‐平和への祈り‐
坂本正直‐平和への祈り‐


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2019年4月29日

坂本正直─平和への祈り─


「やってみらんね」の顔の横にあるコンクリで回りを固められたユーカリノキです。もともと農学部の敷地の真ん中にあって、防風林のような森に囲まれていたのですが、シンボルツリーとして1本だけ遺されたユカリノキ、台風の風にもやられて瀕死の状態でした。あっという間に50枚くらいの油彩を描き上げ、個展を開催しました。今は、大きく伸び伸びと枝を伸ばしています。


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2019年4月30日

高鍋町美術館所蔵作品の一部をアップしました。
今回の「坂本正直─平和への祈り」にも展示します。
泉に馬を連れて行く 三藏法師玄奘月牙泉(敦煌)」をアップしました。
5/15-26開催いたします関連イベントも全て入場無料!!
美術館内のアートホールと美術館のある総合文化公園内!
皆さまのお越しをお待ちしております。


作品展会場3か所でも映像を上映します。NHKインタビュー映像2か所と2014年からの記録映像です。友人の協力で演奏もバックに入ります。風の音や生き残った総合文化公園内のユーカリノキや101歳で去年亡くなった父の妹の話や動画記録の大切さをひしひしと感じます。是非、会場に観にいらしてください。


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2019年5月5日

鉱脈社発行『月刊情報タウンみやざき385号』に掲載されました。お近くの方是非、どうぞ。

月刊情報タウンみやざき385号


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2019年5月11日

5月25日(土) 宮崎県立美術館内アートホールにて、11:00~12:19 「ちづる」 赤崎正和監督 13:00~14:41 「蟻の兵隊」 池谷薫監督映画を上映します。
是非、お近くの方も遠くの方もお越しください。
画像は徴兵直前の父、です。「髪型は思想を現わす」と本人は書いたり、発言していたようですが、周りはさぞかしハラハラドキドキしていたことでしょう。

蟻の兵隊
ちづる
坂本正直写真


チラシ裏面


「蟻の兵隊」予告編はこちらです。

「ちづる」の公式サイトは、こちらです。 映画『ちづる』公式サイト

命令•勝哉号は歩けん ここにおけ「命令•勝哉号は歩けん ここにおけ」


父が住み込みで働いていた今も京都にある「画箋堂」のご主人は、添付ファイルの絵にあるような言葉でさり気なく諭してくれていたようです。父の命があったので、今も命が続いています。
この絵は、多分、岡崎動物園の猿をスケッチしたかと思います。今回、美術館で上映する記録映像の中では、父の妹が、入隊するときに戻った時のエピソードを語っています。「地雷やのごとある髪で、座敷には村の人たちがいっぱい集まっていて、まず風呂で頭を剃って••」その妹も昨年、101歳で亡くなりました。


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2019年5月13日

「莫愁湖─馬が見ていた」 「戦争─(人間の命)」 「火焔山を右手に「めしを食いつつながめていた」
「人間の顔と体が するめいかのようになって 道路にへばりついていました
その上を ほこりをかぶった軍用トラックが 通過した
通過するたび ほこりのなかで 動いているのが みえた
わたし共小行李の兵隊は ほこりをかぶりながら 車両をつけた馬の たずなを持っていた
出征して一年たった兵隊の神経は 平常ではなかったことは たしかです
戦場で つくられてゆく精神状態は どんなものか どんなもので あったかを描いてみたかった」

お一人、お一人の心に届き、「平和への祈り」が次の世代へ確実に伝えられることを願っております。
会場へお越しの方々へお渡しする『私のなかの風景』より
皆さまのお越しをお待ちしております。

莫愁湖─馬が見ていた
戦争─(人間の命)
火焔山を右手に


手榴弾─ながめていた


【1枚目】莫愁湖について、戴国偉さんが情報を下さいました。銃剣が描かれています。
【2枚目】向かって右端に見えるのは、もっとも身分の低い日本兵の軍服です。【3枚目】敦煌あたりは敦煌あたりの砂を、火焔山には火焔山の砂を油絵の具に混ぜています。
四十度以上も続く炎天下の火焔山を求法の旅をひたすら西へ西へと進む三蔵法師たちに想いを馳せます。【4枚目】自分が戦場でやっていたことに対する反省とか、心理状態が異常になったこと、を描いています。そういう状態になってしまう人間、そういう場に行ったら自然とマヒしてしまう人間をですね。
飯盒を描いていますが、飯を食う器であるのと同時に、あれは戦友の死を表しているのです。骨を焼いて飯盒に入れるものと決っていたのです。
私は自らの年譜のようなものは、つくったことがないのです。私にとって、大きく言えば、戦争シリーズをいかに、どういうふうに描くか。角度を変えたり、表現方法も時代とともに変わっていくということはありますが、死ぬまで繰り返し同じテーマなのです。

残酷な戦場において飯盒は何よりも大切で武器弾薬を捨てても飯盒は命綱とされていました。持主は戦場の露と消えていた凄惨な戦場の実態が描かれていると思います。 (戴国偉さんのコメント)

車椅子の方も、ストレッチャーの方も、会場での撮影も会話もOKです!自由に伸び伸びとお過ごしください。


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2019年6月4日

「坂本正直‐平和への祈り‐」難しいことを考えずに「やってみらんね」一生かかっても完璧にはできないんだから、ともかくやってみることを大切に。UMKで放送してもらったり、隣では思いもかけず「藤城清治展」開催中で連日、車椅子の方やたくさんの方がお越しくださいました。会場では父の一番最初の教え子の方80歳以上や中学生が、美術館では静かにの禁を破り、ワイワイガヤガヤ。動画映像からは、坂本自身の声で「殺さなくてもよかったんじゃないか」。生き残ったユーカリの木の画像、風の音、編集された記録画像を観た方が再度、5年後の子どもさんを連れて来て下さったり嬉しい出会いが沢山ありました。不手際、不行き届き多々お許しください。ご来場くださった皆さま、ご協力くださった皆さま、本当にありがとうございました。

展覧会の写真
展覧会の写真
展覧会の写真


展覧会の写真
展覧会の写真
ユーカリの木


屋外イベント


【1枚目】手前は、父が絵を描くときに座っていたものです。

展覧会の写真【2枚目】戴国偉様ありがとうございます。作品の下に参考資料を展示させていただきました。お陰様で、そこからもお客様からいくつもお話を伺うことができました。
右隣はひ孫、18歳の作品です。


【3枚目】「ずーっと通り過ぎるのを見過ごしてもよかったんじゃないか」向かって左は「莫愁湖‐馬たちは見ていた」左奥には、戴国偉さんの莫愁湖に関する資料。右は「飯を食いつつながめていた」捕虜の手が手榴弾で飛ばされるのを平気でながめていられるようになった戦地3年後のことを描いたものです。人間は戦争へ行くと変わってしまうことを伝えようとして亡くなる前まで何枚も描いています。
【4枚目】右端は、未完成、未発表作品です。多分、95歳頃に描いていたものではないかと思います。

ユーカリの木【5枚目】瀕死の状態になっていた美術館のある公園のユーカリノキなど50点をあっという間に描き上げて、ユーカリの周りのコンクリが外され、今は大木となって、公園に立っています。


【6枚目】こんなに美しい所です!晴れていたらここに「ヘンテコお伽小屋」が建って、車椅子の人もストレッチャーに乗った人もみんなで、工作したり、人形劇を観たり、楽器を演奏したりする予定でした。当日は大雨になりましたが、左奥に見える北東屋を急遽、貸して頂けることになり、公園管理課の方もお休みを返上して車で駆けつけて下さり、その会場に、続々と子どもたちが、土砂降りの中、傘をさして遊びにきてくれました🎶
【7枚目】右端の三人の親子さんたちです。風船をわったことを覚えていてくれました!堀尾さんは、もうこの世にいらっしゃいませんが、そして堀尾さんが誰であるかも知りませんが、このときいた子どもさんの心に何らかの形で生き続けることと思います。


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2019年6月8日

「坂本正直‐平和への祈り‐」展でいただいた作品(画像)の﨑村昇平さんが6/8-16宮崎アートセンターで開催の「みやにち夢ひろがる作品展」で、準大賞を受賞されました!
父は1960年代、裏を真っ赤にしたりしています。枠も。
最後の赴任地卒業生書簡の中に、こんな文章がありました。
生前その頃まだ美術館では、写真撮影が禁止されていた頃にバチバチ写真を撮影しては、来られた方に送っていました。

﨑村昇平さんの作品
﨑村昇平さんの作品
展覧会の写真


戦争(人間の命)の原稿
展覧会の写真


戦争─(人間の命)【4枚目】父の最後の赴任地、八代中学校の卒業生の書簡の中に、この手紙を見つけました。
父は、”戦場でつくられてゆく精神状態がどんなものであるかを描きたかったのです”亡くなるときまで、そのことを伝えたかったのだと思います。
私も最近知るようなことです。


【5枚目】この写真は、橋本誠一さんが撮影して下さったものだと思いますが、いずれもフイルムカメラの時代です。撮っている人を撮っているのを更に撮っているというユーモラスな写真です。父のカメラは、オリンパスで、しかも倍の枚数になるカメラだったかと記憶します。これを撮影して下さった橋本さんも父の亡くなる少し前に亡くなられました。

6月8日宮崎日日新聞早速寄せられた6/8今朝の宮崎日日新聞の記事より。おめでとうございます。


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2019年7月18日

「宮崎市安井息軒記念館 夏秋企画 坂本正直が描く 在りし日の息軒」が、7月20日より始まります。父、坂本正直は息軒に関しては特に子供のような素直な目で描いているような気がします。夏休みお子様連れで是非、ご高覧下さい。

坂本正直が描く在りし日の息軒
坂本正直が描く在りし日の息軒


【1枚目】釜戸で火が燃え、その光で書物を読む、苦学する姿を自分の姿とも重ね、実際にポーズをとらせて描いたようです。
【2枚目】人間、安井息軒を次の世代に伝えたいという熱い思いで一枚、一枚、心を込めて描いたのではと考えます。


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2019年9月15日

「安井息軒記念館」開催中作品 2003年作 2,004×1,350 坂本正直89歳。題名「明教堂の息軒(三十歳)のころ」。
次は「廃馬」1963 1,603×1,102 油彩•カンヴァス 49歳
「命令•勝哉号は歩けん ここにおけ」2006 1,300×2,200 92歳の作品、愛猫ヒカリ、最後は96歳、亡くなる半年前です。
大作ばかりで、ほとんど立って手を挙げて描いています。
「安井息軒記念館」は通常、月曜日が休館ですが、祝日の場合は次の日が休館です。11月3日までです。郷土を愛し、二度と戦争はするんじゃないとの祈りを込めて、沢山の作品を遺しました。ご高覧頂けましたら幸いです。 坂本正直が描く在りし日の息軒

双石山登山 文政十二年十月十五日
廃馬
命令•勝哉号は歩けん ここにおけ


アトリエ
アトリエ


【2枚目】ただひたすら毎朝、ストロークを描いて、仕事に出かけていました。
【3枚目】中国の大陸、敵国と言われていたのに自分の国と変わらない田園風景が広がり、泥土の中の荷車、命令で置いていくしかできなかった馬•••
【4枚目】油絵の具に毛がまじって居る作品もあります。
後ろは恩師、須田国太郎先生の作品写真。
【5枚目】たまたま偶然に、というか何時も見守っていたヒカリです。ヒカリは健在です。
この絵は、上下200号作品の上の部分です。 輸送船にのせられて 揚子江 2000 2,600×1,620 油彩•カンヴァス

老いた病馬ヒカリが乗っている作品はこちらです。1964 1,653×1,163 油彩•カンヴァス
どうしてこの作品が2010年ころに、ここにあったのか、不思議です。


「安井息軒記念館」作品は、誰にでもわかるように、小中高生たちに郷土に関心を持って欲しいとの願いを込めて描いていると思います。背景も実際の山を愛し、何度もスケッチしたり絵の題材にした風景です。
作品サイズの表記 「安井息軒記念館」の方は、横×縦です。


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2019年10月8日

「坂本正直が描く在りし日の息軒」11/3まで安井息軒記念館
「宮崎太陽銀行本店」正面吹き抜けに大作3点連作他、所蔵。
「宮崎歴史文化館」戦争から帰国した時の焼け野原の宮崎他
併せてご高覧頂きましたら幸いです。

坂本正直が描く在りし日の息軒
坂本正直が描く在りし日の息軒
誕生•母子


馬 母子
RTO.跨線橋•宮崎駅


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2019年11月2日

『坂本正直が描く在りし日の息軒』安井息軒記念館7/20-11/3
残すところ後2日となりました。沢山のご来場をありがとうございます。作品の高さは2m近くになります。87歳で、ほとんど立ち通しで、腕を心臓より高く上げて、描き込んでいます。初期のストローク作品にも通じる、ただただ塗り込んでいく作業が続いたことと思います。最後の画像は、宮崎県立美術館所蔵ですが、こちらもただただ魂を塗り込んでいったかと思われます。
安井息軒

安井息軒 仲平豆と称し食す(二十二歳)
明教堂の若き息軒
馬たちは・・・中国に


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2020年1月1日

明けましておめでとうございます。
2017年8月に宮崎日日新聞社で開催した「坂本正直展」。
その前日に発見したスケッチブック。絵の内容不明が、2019年5月、宮崎県立美術館開催時に教え子の方の書簡の中父自身がかかったマラリヤの絵だと判明しました。
一歩踏み出すことの大切さを学びました。
2017年8月は、ちょうど台風襲来で、飛行機もフェリーも欠航。新幹線に飛び乗り鹿児島へ。次の日も日豊本線不通で、バスの開通を待って宮崎入り、協力を得て綱渡り搬入設営。
この絵もスケッチも実家と共に処分されました。資料類も。
大作は、何とか保管しているものの先行きはわかりません。
”戦争へ行くと人間は変わってしまう””子どもたちを二度と戦場へ送ることが無いように”と描き続けた絵は消えるかもしれません。
作品のご紹介

坂本正直展
坂本正直展
坂本正直展


坂本正直展


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2020年1月15日

「戦争の時代のなかで」美校の願書をもらって準備をしていたら、召集でした。招集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年(昭和12年)の7月でした。父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない古里の風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。輜重兵として中国を転戦し、’40年に除隊になりました。
私は再び京都に出て、今度は絵の具屋の画箋堂に勤めながら絵を描くことになります。やがてアメリカとの戦争が始まり、‘42年から二度目の応召です。
画箋堂では、上村松園さんなどいろいろな絵かきさんへの注文の画材を届ける仕事が多かったですね。そして、また須田先生との出会いがあるわけです。 (須田国太郎)
研究所に作品を持って行ったり、先生が画箋堂にみえたときに見てもらったりしました。先生からオーケーをもらって、独立展に初入選したのが’41年(昭和16年)3月です。
兵隊と馬を描いた「出発準備」、私の戦争シリーズの原点とも言える50号の作品です。中学時代に習った小池鐡太郎先生に「初めて入選しました」と宮中に送り、校長先生が校長室に飾って下さった。ところがこの作品は、宮中と一緒に焼夷弾で焼けてしまいました。
私にとって、須田先生に出会い指導を受けたのが、何と言っても大きいのです。先生の絵は、当時の描き方、構成も、肌もやり方も違っていて、いわゆる須田調といわれる独自な作品を描いていました。私の体質に合っていたことも確かです。おしゃれな絵は似合わないのです。
二回目の戦地は台湾でした。在郷軍人のとき、運転免許を持っていることを書いたため自動車部隊でした。しかし台湾では米国の攻勢のために、自動車は使えず、また馬と一緒に動きました。最後の最後まで馬でした。子供の頃も家に馬がいました。中学一年ぐらいまででしたか。その後は牛でしたが、馬と私は切っても切れない縁があるのです。
(「私のなかの風景」木村麦より)
画像作品は1976年にリトグラフ作品として同じ構図で作成したものです。401×527
輜重兵S

出発準備


坂本正直について 20代はほぼ戦争だったようです。


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2020年2月15日

坂本正直作品 : 1956 1,620×1,310 油彩•カンヴァス
軍隊手帳 1974 1,621×1,303 油彩•カンヴァス 宮崎県立美術館所蔵 軍歴マップ更新しました。

馬の群
スケッチメモ
スケッチメモ


戦死した輜重一等兵
戦死した輜重一等兵
1974 1,621×1,303 油彩•カンヴァス
宮崎県立美術館 所蔵


【1枚目】馬の後ろ姿です。戦後、帰国して塩月桃甫(「塩月桃甫」ドキュメンタリー映画PV)に瑛九(瑛九作品 Bing画像検索結果)を紹介され、瑛九から山口薫(山口薫作品 Bing画像検索結果)を紹介され、傾倒していき、戦争の記憶を消すかのように描き続けました。
【2枚目】父は大変な兵隊生活の中で、中国の美しい建物や風景を見た時に感動し、素早く軍隊手帳に描きとめたかと思います。描いている時だけ平常心を保つことができたのでしょう。
【3枚目】素早く描いて、戦中どのように隠し帰国し、台湾へ2度目の戦争へ行った時は、何処へ隠していたのか、今となってはわかりません。
【4枚目】馬の世話をしていた戦友を描いたのでしょうか。馬の顔が暗がりに見えます。


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2020年2月18日

父は晩年、壁に掛けていた塩月桃甫さんからいただいたスケッチを見ながら「塩月さんが、台湾の兵舎に訪ねてくださって、絵の具と筆をくれた。嬉しいかった」と語っていました。どんなにか生きる希望になったかと思います。
後に瑛九さんを紹介され、瑛九さんとの交流が始り、山口薫さんを紹介されて、モダンアートへとつながっていきます。映画を楽しみにしています。

ご縁というものは、不思議ですね。このひとつでも途切れていたら今に繋がっていなかったと思います。感謝を込めて我が家の冬の庭の花たちです。


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2020年3月18日

坂本正直の紹介が掲載されました。 アートスケープ | アート•アーカイブ探求
画像は 玄奘法師 麹文泰 火焰山を右にながめて 1996-99 1,300×1,620 油彩•カンヴァス です。

玄奘法師 麹文泰 火焰山を右にながめて


父は火焔山といいますか、中国のこのような山々が好きだったようです。多分、この絵にもその地の砂が混ぜられていると思います。敵国だと教えられた中国におり立って観ると日本と同じような風景が広がり、日本人と同じような人々が暮らし(その様子は、今の宮崎日日新聞に連載掲載されていました。家族は新聞の記事で安否を確認していたそうです。米びつに隠し保存できていたのですが、今は、それが何処へ行ったのかわかりません。)日本と同じような農村風景に愕然としたようです。中国の人日本の人、動物たち、そして歴史ある建物•••消えていった諸々をその地の砂を混ぜることで絵の中に取り入れています。


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2020年4月5日

坂本正直は自然を愛し、絵で遺そうと描き続けました。
『心にのこっている景色』2003 1,940×1,303 油彩•カンヴァス 大正から昭和のはじめごろ 宮崎歴史文化館所蔵
『水神様』画像は、今年3月、関西の水神様です。
心にのこっている景色』構図詳細

心にのこっている景色
水神さまの杉
水神さまの杉


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2020年4月11日

坂本正直は敗戦の次の年に帰国し中学校の美術教師になりました。
当時の教え子の方から頂いた写真から平和で自由であることを一緒に創りだそうとしていたエネルギーを感じられます。ポスターも自作です。同じころに描いた作品は、後に無鑑査の賞を受賞します。
坂本正直について

宮崎市立生目中学校 レミゼラブル
宮崎市立生目中学校 レミゼラブル(裏面)
自画像
自画像
1950 647×534 油彩•カンヴァス


8月15日の空•敗戦【1枚目】靴はどこで手に入れたのでしょうか?こちらは本人が戦場で履き、戦後も靴が無く履いていた軍靴です。下記は、NHK「いっちゃがワイド」で語った言葉です。
8月15日の空•敗戦


【2枚目】坂本は挨拶をするのに「ボンジュール」と言っていたようです。実家の没落や戦争で、フランスへ留学できなかった思いからだったでしょうか。

これも教え子の方に教えて頂いたのですが、この上演の前の年、昭和24年(1949年)法隆寺の壁画が焼けた日に、坂本は男子学生たちに小さな黒板か何かに「法隆寺が火事に」とか書いたものを担がせて、学校中、触れ歩けと言ったようです。その学生は、その時は恥ずかしいと思ったけど忘れられないと言ってまいた。


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2020年4月19日

「高鍋町美術館」より『所蔵名品選』が、送られてきました。
絵葉書も同封されていました。ありがとうございます。
坂本正直の沢山の作品を所蔵いただいております。 高鍋町美術館所蔵作品
高鍋町美術館

オリオン星座
『高鍋町美術館館蔵名品選』
『高鍋町美術館館蔵名品選』より「オリオン星座」


高鍋町美術館の絵葉書


坂本正直は何度かの中国やネパールからインドへの旅の中で、その場でスケッチしたり、その場の砂や土を採取したり、スケッチブックに塗りつけたりして遺しました。「高鍋町美術館」に所蔵されている作品は「求法の旅」シリーズで描いたものです。この中にも砂が塗り込められているかもしれません。馬や人間や沢山の命が消えた砂を絵に混ぜることで弔っていたのかもしれません。美術館では珍しく加害性を描いた「戦争を馬もみていた」は、晩年まで坂本が描き続けたテーマです。亡くなる97歳まで住んでいた家にも描き続けた作品がありましたが、それらは処分されてしまいました。そして今、ある300点の作品も処分されてしまうかもしれません。


手榴弾─ながめていた


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2020年4月30日

坂本正直は、本来の樹形ある樹を絵に遺しました。
最初の作品は、宮崎競馬場の今頃の季節かと思います。
次は、宮崎大学工学部?4枚目は宮崎県立美術館前のユーカリ。
最後はそのユーカリがコンクリートで固められている時の姿です。
2005~6年、坂本91、2歳頃に一気に描いた作品かと思われます。 (不明)

(不明)
(不明)
(不明)


(不明)
ユウカリノキ1998年ごろ


【2枚目】手前にあるのは、愛用の自転車です。
【3枚目】この校舎も木も何も残っていないと思います。何方かご存知でしょうか?
【4枚目】コンクリートで回りを囲まれたユーカリは、瀕死の状態です。
【5枚目】ここは、もともとは宮崎大学でした。このユーカリは、大学食堂の前にあったものかと思います。北海道大学を模して造られた宮崎大学は、広大な敷地に、世界中の種類の樹が植えられ、台風の多い宮崎の地で、防風林のような森が、このユーカリを守っていました。

ユーカリの木2019年5月撮影画像です。ユーカリの周りのコンクリートは外され、生き返ることができました。坂本正直は、やらずに後悔するより「やってみらんね」を言い続けました。すぐ近くの母校、旧制宮崎中学、現大宮高校には、このユーカリの絵が2点と焼け野が原の高千穂通の絵が掛けられています。後輩たちに行動することと、二度と戦争などするんじゃないということを伝えようとしたのでは無いかと考えられます。


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2020年5月24日

坂本正直は救いを求めるように何度も訪ねた中国を描いています。
火焔山が特に好きだったのか、何か特別な思いがあったのか•••
『高鍋町美術館館蔵名品選展』が6/2から始まります。8/30まで。 高鍋町美術館
5枚目は「戦争•人間が人間を」。二度と戦争を繰り返すことが無いようにと祈りを込めて描き続けた300枚の作品は、全部処分されてしまうかもしれません。戦争へと駆り出された多くの兵隊と同じように、無かったことにされるのでしょうか。
作品詳細は、作品のご紹介

玄奘法師 麹文泰 火焰山を右にながめて
ゴビタンの布隆吉を行く 三藏法師玄奘
玄奘三藏法師 高昌国の使者たち 高昌城近くに来た


求法の旅
戦争•人間が人間を


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2020年6月9日

坂本正直作品「空襲」です。
1975-77 1,620×1,300, 1,620×1,300, 1,620×1,300, 1,620×1,300, 1,455×1,120 油彩•カンヴァス 5枚続けて描いています。どうしても描かなければならないと1975年に思い立ったのでしょうか••

空襲


家へ•高千穂通りを西へ家へ•高千穂通りを西へ 1997 827×932 油彩•カンヴァス
JR宮崎駅から西に延びる高千穂通を今あるデパート前から見たような風景を描いています。
もちろん丸焼けですからね。
なじみの宮崎も高千穂通の両脇の家々も丸焼けで、無いのですから。
もう焼野原は、あたりまえであって、とにかく自分の家に帰らにゃならんでしょうが。
そして生きているかどうかわからんでしょうが。
もちろん今みたいに電話があるわけで無し。
はたして生きているのかなぁ。
不安があって、早く帰って確かめたい気持ちでいっぱいでした。

坂本正直のインタビュー記録より。 坂本正直記念館


戦争(人間が人間を)「戦争 (人間が人間を)」 1978-79 1,300×1,620 油彩•カンヴァス 上記の「空襲」後、こちらを描いたのでしょうか?連続作品なのでしょうか?今となっては、わかりません。


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2020年6月20日

坂本正直は絵を描くことが楽しく頼まれると民話も描きました。
高鍋の民話です。高鍋町美術館では8月30日まで所蔵名品展開催。
宮崎太陽銀行所蔵の「求法の旅」ですが、自身を重ねています。
敗戦後の翌年鹿児島へ上陸し日豊線で宮崎に帰郷しました。日本まで無事に着いたのに、日豊線のトンネルで汽車が脱線して亡くなった方もあると聞きました。坂本正直は2回の長い戦争経験を通して、子どもたちに二度と戦争などするんじゃないよと描き続けました。難しいことを考えないで「やってみらんね」と体験することを常に後押ししていました。
高鍋町美術館
坂本正直記念館

日向こども民話「児原稲荷のキツネ」”
求法の旅>
求法の旅
制作年不明 1,100×1,750 油彩•カンヴァス
宮崎太陽銀行本店 所蔵


1946年3月5日帰国上陸─鹿児島
1946年3月5日帰国上陸─鹿児島
1997 1,620×1,620 油彩•カンヴァス
貨車にのせられて(日豊線)
貨車にのせられて (日豊線)
1976-77 1,620×1,300 油彩•カンヴァス
都城から「勝哉号」と共に貨車で (裏面記載)


1946年3月5日帰国上陸─鹿児島鹿児島は、土蔵が多くあり焼けの原に土蔵が残っていました。


引揚げ帰国 桜島─雨鹿児島には数日間滞在し、日豊線で宮崎に帰っています。当時描いたスケッチや目に焼き付けた風景を後に作品に記録しています。坂本は「その時、こうこうでしたという記録ですね」とインタビューの中で答えています。


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2020年7月26日

都城市立美術館にて『収蔵作品展夏休み企画<入門>アートの疑問「平和の彩典」』(2020年7月14日から8月23日まで)が開催されております。坂本正直の作品も所蔵作品より1点展示されております。ご高覧頂けましたら幸いです。 都城市立美術館
坂本正直作品記念館 美術館所蔵作品 都城市立美術館

勝哉号(3-1)クリークの月
勝哉号 (3-1) クリークの月
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵
勝哉号(3-3)南京で別れた日
勝哉号 (3-3) 南京で別れた日
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵
勝哉号(3-2)雨の日
勝哉号 (3-2) 雨の日
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵


馬、兵隊、輸送船に乗せられて
馬、兵隊、輸送船に乗せられて
2004 1,939×1,303 油彩•カンヴァス


【1枚目】船の底から空を見上げたところを表現しています。

坂本正直は京都で須田国太郎に師事し勉強中に召集を受け、郷里宮崎に戻り、都城の方の馬(勝哉号)と一緒に戦争へと駆り出されて行きます。
軍歴マップは、こちらです。 軍歴マップ


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2020年8月5日

坂本正直作品(都城市立美術館所蔵)が広報誌に掲載されました。
「馬が見ていた」と何度も題名に書いています。
「莫愁湖」という題名も何度も出てきます。
長雨、高温多湿、狭い小屋で300枚の大作の保全が危ぶまれます。

「広報 都城」
莫愁湖─馬が見ていた
莫愁湖─馬が見ていた
1983 1,350×1,950 油彩•カンヴァス
クリークの月62-1
クリークの月62-1
1976-77 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


クリークの月 馬が見ていた
クリークの月 馬が見ていた
1990-91 1,620×2,600 油彩•カンヴァス
莫愁湖
莫愁湖
1977 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
クリークの月─馬
クリークの月─馬
1974-75 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


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2020年8月10日

1枚目は宮崎県立美術館所蔵の坂本正直作品です。
開催中の高鍋町美術館、都城市立美術館、共に臨時休館中です。
コロナの影響で、休館が余儀なくされています。ご来館の際は、ホームページなどでご確認をお願いいたします。

馬たちは・・・中国に
馬たちは・・・中国に
1985-86 1,620×2,610 油彩•カンヴァス
宮崎県立美術館 所蔵
戦死した輜重一等兵
戦死した輜重一等兵
1976 418×307 リトグラフ 4/10
戦いの日の患者たち
戦いの日の患者たち
1976 338×517 リトグラフ 2/10


大陸の土に
大陸の土に
1976 285×426 リトグラフ 7/10


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2020年8月15日

「8月15日の空•敗戦」 1987 910×727 油彩•カンヴァス
軍靴も勲章も不要になった敗戦の日(裏面記載)
戦争が終わって「ほっ」とした。台湾の山の中です。
平地にいるとアメリカのグラマンにやられる。
私たちは狙われるから。馬と一緒に隠れていました。
忘れられんですね。戦争がすんだから「ほっ」として、青空がきれいに見えるじゃないですか。嬉しい。
もちろん、その日は日本晴れでした。
下にあるのは軍靴です。明けても暮れても履いている。
他に履くものが無いから、戦争が終わってからもずっと履くわけです。これを履いて勤めるわけです。
軍靴の下にある赤いのは勲章です。日中戦争の最初に貰った一番、位の低い勲章です。
戦争が終わって、値打ちも何にも無くなった勲章をあんなふうに描いたわけです。
敗戦の次の年、台湾から鹿児島に向け引き揚げました。
(NHK「いっちゃがワイド」インタビューより)

8月15日の空•敗戦
下船命令
下船命令
1977-97 1,622×1,305 油彩•カンヴァス
輸送船にのせられて
輸送船にのせられて
1983-84 1,940×1,303 油彩•カンヴァス


輸送船にのせられて─黄海
輸送船にのせられて─黄海
1998-99 2,600×1,620 油彩•カンヴァス
馬を輸送船にのせる
馬を輸送船にのせる
1999 1,000×600 油彩•カンヴァス


この猛暑、高温多湿、作品が狭いプレハブ小屋で耐えられるのか心配です。


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2020年8月22日

坂本正直は、戦争被害だけでなく戦争加害を多く描いています。
1枚目、2枚目に見えるのは銃剣でしょうか。
「馬が見ていた」「馬たちは見ていた」と描き遺しています。
それらを次の世代へ伝え遺すことができず、猛暑に劣化するのを見過ごすことしかできません。

莫愁湖─馬が見ていた
莫愁湖─馬が見ていた
1983 1,350×1,950 油彩•カンヴァス
莫愁湖─馬たちはみていた
莫愁湖─馬たちはみていた
1984 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
捕虜
捕虜
1976-77 1,303×1,940 油彩•カンヴァス


戦争•捕虜をどうする
戦争•捕虜をどうする
1986•1997 1,620×1,300 油彩•カンヴァス
戦争─殺すのをながめていた
戦争─殺すのをながめていた
1991-92 1,620×2,600 油彩•カンヴァス


【2枚目】莫愁湖で何があったのか••• 莫愁湖公園
【3枚目】縄で後ろ手に繋がれているの観て取れます。
日本軍服と馬の顔が見えます。
【4枚目】針金や縄で繋がれているのが観て取れます。
【5枚目】捕虜の手が手榴弾で飛ん来ても戦場で神経が麻痺し平気で食べていた。
戦争へ行くと人間の神経がおかしくなるのを伝えたく晩年96歳まで沢山同じ題名で描き続けました。

Mochou Lake - Horses were watching it.莫愁湖─馬は見ていた 1995 1,620×2,600 油彩•カンヴァス
莫愁湖公園周辺には南京大虐殺紀念館がある。
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館
坂本正直記念館


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2020年8月30日

坂本正直作品の裏には、題名の他に制作年を入れています。
画像1枚目、2枚目、2点は不明です。未完成だと思われます。
「どうしても伝えておきたいこと」を200号作品を同時進行で、狂ったように描きまくっていたかと思われます。

(不明)
制作年不明 1,120×1,940 油彩•カンヴァス
(不明)
制作年不明 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
莫愁湖
莫愁湖
1977 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


戦争(人間が人間を)
戦争 (人間が人間を)
1978-79 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


【1枚目】左端に細長く光るのは銃剣かと思われます。
【2枚目】細長く光るのは銃剣かと思われます。左端は日本兵の軍服です。右端には馬を描こうとしていたのでしょうか。「莫愁湖‐馬•••」同じ題名作品があります。
【3枚目】この作品も最初は黒や青の点々が狂ったように叩きつけられ塗り込められていたかと思います。その怒りを収めるようにパレットナイフで削り、削り、静かな莫愁湖が月の光に浮かび上がって来たかと思われます。
【4枚目】同じ題名で何作品も描いています。「戦争」は、人間が人間を•••

3枚目は「莫愁湖」です。莫愁湖で何があったのか。4枚目は「戦争(人間が人間を)」です。


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2020年9月6日

坂本正直作品に「23」という数字が多く出てきます。今まで、単に好きな数字かと思っていたのですが、所属部隊でした。
題名から読み取れるように、兵士も馬も、自分の意志で動くことは無く、船に乗せられ、転戦させられたのでした。

輸送船に乗せられて
輸送船に乗せられて
2005 1,940×1,303 油彩•カンヴァス
m展 (裏面記載) mはモダンアート展
馬、兵隊、輸送船に乗せられて
馬、兵隊、輸送船に乗せられて
2004 1,939×1,303 油彩•カンヴァス
第56回宮日総合美術展覧会2004
都城市立美術館 所蔵
転戦─馬部隊
転戦─馬部隊
2008 1,300×2,200 油彩•カンヴァス


輸送船に乗せられて
輸送船に乗せられて
2003 1,940×1,303 油彩•カンヴァス


【1枚目】暗い船艇(現実)から空(希望)を見上げている構図になっています。

馬を輸送船にのせる【2枚目】下級兵士の軍服です。亡くなった戦友たちなのかもしれません。
馬を輸送船にのせる 1999 1,000×600 油彩•カンヴァス


【3枚目】94歳の時の作品です。ほとんど立って描いています。敵と教え込まれた国を転戦させられ、そこの風景に日本と同じような田園風景を見たり、泥土を••馬は釣り上げられ、輸送船に乗せられ、列車に乗せられ、自分の姿と重ね、大作に込めたものは•••
暗い過去から解放され、明るい未来(死が近い?)へ行こうとしている?

馬を輸送船にのせる【4枚目】馬を輸送船にのせる 1999 1,000×600 油彩•カンヴァス


(不明)95歳で倒れたと連絡があった時に描きかけていた絵はこちらです。 (制作年2009年 1,300×2,200 油彩•カンヴァス) ほぼ同じ構図、同じ大きさで描こうとしていたようです。


「坂本正直生誕100年没後3年」の写真2014年の「坂本正直生誕100年没後3年」の時にアトリエ再現のコーナーから堀尾貞治さんが、絵筆を持ってパフォーマンスへ出られる時の様子です。


「坂本正直記念館」に「加害性告発と考えられる作品」の項目を加えました。制作年不明とあるのは未完成作品かと思われます。
加害性告発と考えられる作品


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2020年10月4日

坂本正直作品を「立命館大学国際平和ミュージアム」に29点所蔵していただきました。
戦争被害、戦争加害、平和を願い描き続けた遺志が次世代へ繋がる一歩が始まりました。
立命館大学国際平和ミュージアム所蔵作品

戦争•人間が人間を
戦争•人間が人間を
1981-82 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
小行李の行軍
小行李の行軍
1976 272×462 リトグラフ 4/10
玄奘法師•高昌城を出発
玄奘法師•高昌城を出発
2007 805×1,165 油彩•カンヴァス
麹文泰見送る (裏面記載)


スケッチメモ
制作年不明 16枚 鉛筆•紙 (軍隊手帳)


【2枚目】勇壮な行軍の絵の多い中で、馬も兵隊も背を曲げ、悲しげです。
【3枚目】額は手彫りのタッチが見えます。
【4枚目】真ん中の左より四枚目に「涿県城内」と注釈してあります。北京に近い河北省の中の小さな街で今は涿州市となっています。一回目の召集で「淶水県(河北省保定市)昭和12年8月20日~9月20日 板橋村付近の戦闘に参加」の淶水県のすぐ傍です。
専門家により額装から外され、裏に描かれているスケッチも研究がされます。


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2020年10月8日

高鍋町美術館
トップ画面、中央3枚、坂本正直作品です。
土佐茅葺生家が壊される時に遺した戸板に描かれています。
ボーダーレス!~もっと自由にアートを楽しむ館蔵名品選~
令和2年9月29日(火曜日)~令和3年3月26日(金曜日) 有料
ご高覧頂けましたら幸いです。

高鍋町美術館
ボーダーレス!~もっと自由にアートを楽しむ館蔵名品選~


作品は、「釈迦山中を行く」「釈迦山中を行く」「砂漠に立つ玄奘法師」戸板に油彩です。


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2020年10月11日

高鍋町美術館展示中央 坂本正直作品です。

ボーダーレス!~もっと自由にアートを楽しむ館蔵名品選~


敗戦、終戦─1945年高鍋町美術館には、34点の作品を所蔵頂いていますが、坂本正直の「求法の旅」だと考えられます。中国で亡くなった戦友や置いていくしかできなかった馬たちへの鎮魂。絵には、敦煌などで採取した砂が油絵の具に混ぜられているかと思います。3枚の絵は逞しい姿ですが、坂本の亡くなった時の姿は、荒野を旅しやせ細っているけれど安らかな僧のような姿でした。宮崎県立美術館に所蔵されている「敗戦、終戦─1945年」では馬がまるで砂漠の砂に幻のように消えていっています。こちらにも中国の土や砂が混ぜられているかと思います。1979-80 1,624×3,542 油彩•カンヴァス 宮崎県立美術館 所蔵


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2020年10月13日

宮崎県立美術館 : 「宮崎の美術─ふるさと再発見」 10/3-12/24(木)まで。
坂本正直作品 1階コレクション室展示 「ふるさとの山 韓国岳の絶壁」ご高覧頂けましたら幸いです。
「宮崎の美術─ふるさと再発見」

ふるさとの山 韓国岳の絶壁
1983 1,167×910 油彩•カンヴァス
宮崎県立美術館 所蔵


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2020年10月19日

坂本正直作品2点が坂本が務めた檍中学校に収蔵されました。
檍校区内の一ツ葉の浜は様変わりしましたが、絵に遺しました。
瀕死の状態のユーカリを遺すべく91歳で一気に描き上げました。
コンクリで回りを固められた絵を収蔵されたことは大きいです。
檍中学校に務めた頃はまだまだ親を戦争で亡くした子どもたちも
多く、障害のある子どもも貧しい子どもも皆平等に一緒に歩めるように「やってみらんね」と奔走していました。
3枚目は、県を動かしコンクリの分厚い囲いが外されユーカリが生き返った様子が描かれています。
(不明)

一ッ葉の春
一ッ葉の春
1981 727×1,167 油彩•カンヴァス
宮崎市立檍中学校 所蔵
(不明)
2005年 970×1,455 油彩•カンヴァス
宮崎市立檍中学校 所蔵
(不明)
題名制作年不明 1,120×1,455 油彩•カンヴァス


【1枚目】檍中学校の校区です。
【2枚目】題名も制作年も不明となっていますが、作品の右側にあるユーカリを助けるため坂本正直91歳、2005年に一気に描き上げた時の作品の一つです。ユーカリの下には、コンクリートの囲いが見えます。左側は、芸術劇場です。後ろに見えるのは宮崎県立美術館です。
【3枚目】2005年に一気に描いた作品と考えられます。

ユーカリの木生還したユーカリです。 (2019年5月21日撮影)


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2020年10月23日

坂本正直作品2点が、JRA宮崎育成牧場に収蔵されました。
ちょうど子どもたちの「馬の絵展」表彰式でした。
「馬の絵展」表彰式のニュース (宮崎放送)

少年の日見た馬
少年の日見た馬
1999 1,340×860 油彩•カンヴァス
JRA宮崎育成牧場 所蔵
競馬場の杉
競馬場の杉
1974.3 705×1,170 油彩•カンヴァス
JRA宮崎育成牧場 所蔵


【1枚目】出征する前も飼葉用に草を刈ってから家を出たと言っていました。
戦争の話は、まったくしてなかったのに飼葉をやって出た話だけはしていたことに気づきました。
【2枚目】檍中学校へ勤務の頃は、朝夕いつもここを通って自転車で通っていました。もうこの風景は見ることができないでしょう。

クリークの月 馬が見ていた馬の表現の仕方が「少年の日見た馬」は随分違います。きっと子どもさんたちにわかりやすいように、以前はこんな飼い葉おけで、水はこんな桶で。ということを伝えたいという気持ちで心を込めて描いたかと思われます。


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2020年11月8日

坂本正直作品の内、4点を最後の勤務地の国富町立八代中学校に。 国富町立八代中学校所蔵作品
3点を宮崎県遺族会館に収蔵しました。 宮崎県遺族会館所蔵作品

牛の話で父の生存をしる
牛の話で父の生存をしる
1997 910×910 油彩•カンヴァス
国富町立八代中学校 所蔵
負傷兵
負傷兵
1997 1,120×1,445 油彩•カンヴァス
宮崎県遺族会館 所蔵
出発準備
出発準備
1976 401×527 リトグラフ 3/10


雨と兵隊(小行李)
雨と兵隊 (小行李)
1976 238×471 リトグラフ 5/10
宮崎県遺族会館 所蔵
家へ•高千穂通りを西へ
家へ•高千穂通りを西へ
1997 827×932 油彩•カンヴァス
国富町立八代中学校 所蔵


【1枚目】村の入り口に帰ったら、村の入り口で消防団の人が、「あんたのお父っさんな牛を売ってなぁ」
売るわけです。
「ほっ」とした。
「親父が生きちょる」。
牝牛じゃったもんやかい、腹に子が入っちょって値段が高いわけです。
農家じゃ皆さんそうするわけです。
他の家族のことは聞かずにもう早めに家に帰ったわけです。
【2枚目】NHK「いっちゃがワイド」のインタビューの中で坂本正直は、「気の毒じゃぁ~と思ったとですよ。私たちは食料運びでしょうが。こん人たちは最前線で戦っちょるわけでしょ。目がおうたんですよ。こん人と•••そん時の強い印象を描きました。」
上記のようなことを絵を前に、語っておりました。
【3枚目】”出発準備”は昭和20年8月12日の昼、B29が投下した焼夷弾で県立宮崎中学校の校舎とともに焼失してしまった。
中国(中支)から帰った、昭和15年•画箋堂(京都)で描いて、独立展に出品した。
いつかまた、召集がくるかわからない不安があった。
16年の夏、すでに中国からいっしょに帰った戦友は、また召集をうけて戦場に送られていた。
太平洋戦争が、この年の12月8日に始まった。
2回目の召集が、きたのは17年の夏であった。
   「わたしの戦争体験の記録展」のパンフレットより
1976 401×527 リトグラフ 3/10
出発準備
1940-1941
1941.3 11回 独立美術協会展
上記油彩画をもとに、同じ構図、構成でリトグラフ作品に再現したと思われます。
立命館大学国際平和ミュージアム、宮崎県遺族会館 所蔵
【5枚目】なじみの宮崎も高千穂通の両脇の家々も丸焼けで、無いのですから。
もう焼野原は、あたりまえであって、とにかく自分の家に帰らにゃならんでしょうが。
そして生きているかどうかわからんでしょうが。
もちろん今みたいに電話があるわけで無し。
はたして生きているのかなぁ。
不安があって、早く帰って確かめたい気持ちでいっぱいでした。

作品と一緒に保管されていた卒業生の作品も渡すことができました。戦争の記憶、記録の絵を学生さんたちに見ていただき、次の世代へ伝えることができますことを願っております。


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2020年12月8日

”出発準備”は昭和20年8月12日の昼、B29が投下した焼夷弾で県立宮崎中学校の校舎とともに焼失してしまった。
中国(中支)から帰った、昭和15年•画箋堂(京都)で描いて、独立展に出品した。
いつかまた、召集がくるかわからない不安があった。
16年の夏、すでに中国からいっしょに帰った戦友は、また召集をうけて戦場に送られていた。
太平洋戦争が、この年の12月8日に始まった。
2回目の召集が、きたのは17年の夏であった。
   「わたしの戦争体験の記録展」のパンフレットより
1976 401×527 リトグラフ 3/10
出発準備
1940-1941
1941.3 11回 独立美術協会展
上記油彩画をもとに、同じ構図、構成でリトグラフ作品に再現したと思われます。
立命館大学国際平和ミュージアム、宮崎県遺族会館 所蔵

出発準備


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2020年12月21日

坂本正直は戦争から戻ると中学校の美術教師をしていました。
「やってみらんね」。絵の具が買えず「忘れた」と言う子に「買うて来い」とポケットから小銭を渡していたらしいです。
今回、その頃新聞に挿絵を描いていたことを教えてもらいました。

自画像デッサン
1957.5.15 385×270 マジック•紙
自画像デッサン
1955.7.18 360×258 鉛筆•紙
自画像デッサン
1957.5.2 355×250 マジック•紙


新日向滑稽通信2 「鈿女命の戀2」
昭和27年(1952年)12月18日 木曜日 日向日日新聞掲載


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2020年12月26日

坂本正直22歳、1932年(昭和12年)戦争色濃き時に描きました。
髪の毛ひとつも自由にしづらい時だったのでしょうか。
記録スクラップブックを「立命館大学国際平和ミュージアム」に所蔵いただきました。 スクラップブック
画像が重く開くのに少し時間がかかります。ご覧いただけましたら幸いです。
また当時の情報やその他、お知らせ願えましたら尚幸いです。

スクラップブック
スクラップブック
スクラップブック


スクラップブック


戦前、戦中、戦後、これらの記録をどこへ隠していたのか、よく無事だったことだと思います。

【1枚目】不安な世情の中で、これを記そうと、戦中戦後の動乱期、これをどこへ隠していたのだろうか?生前に聴いておけばよかった。
【2枚目】藝術という字そのものが藝術的。
【3枚目】この頃、廻りの一般男性はどんな髪形をされていたのでしょうか?
【4枚目】1936年11月26日••たまたま何かが包んであった新聞をこの記事の所だけ破りポケットに忍ばせたのだろうか••


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2021年1月17日

坂本正直が21歳の師走に子どもの絵について書いています。
軍事色の濃くなる中で子どもたちのこと嬰孩性のことについて書き記して置こうと考えたのでしょうか。
竹林の愚人の本棚 | 私の現代美術
スクラップブック

スクラップブック
スクラップブック
スクラップブック


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2021年1月31日

「坂本正直─平和への祈り」展 2019.5/15-26に併せ再版しました。
「私のなかの風景」木村麦さんが坂本正直の話をまとめたものに作品画像を加えたものをアップしました。ゴビタンで何が•••
私のなかの風景

ゴビタンの布隆吉を行く 三藏法師玄奘
ゴビタンの布隆吉を行く 三藏法師玄奘
1985 727×1,167 油彩•カンヴァス
真栄寺 所蔵
『坂本正直さんが語る  私のなかの風景』
馬の一生
馬の一生
1963 1,608×1,103 油彩•カンヴァス


ゴビタンを行く馬
1963 1,365×930 油彩•カンヴァス


1963年 第1回九州山口油絵コンクールでグランプリ受賞。(九州山口朝日賞)作風の同じような作品で受賞しました。10年くらいこのストロークの作品が続きます。早朝、仕事へ行く前にアトリエからザーッザーッという音が聞こえていました。帰宅すると持ち帰った生徒たちの沢山の絵を広げ、あちこちの公募に応募していました。テスト期間中には、ガリ版に向かい3学年それぞれに違った問題を作成していました。コピー機もパソコンも無い時代、絵も文字も全部手描きしていました。凝り性の性格なので、プリント全体でレイアウトや明朝体やゴシックなど使い分けて描いていました。何かしら答えられるように、学校の校門にあるものなど観ることに関心を持つ問題を楽しみながら熱中して作成していたようです。


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2021年2月12日

坂本正直画「三斗米騒動」紙芝居動画をアップしました。
18分ほどです。ご覧いただけましたら幸いです。いつの時代も•••
ホームページブログ画像をクリックしてください。

こだわりの坂本正直は、それぞれの場面、地理的にも天体的にも考え描いていると考えられます。


生目地域の文化遺産パンフレット(表面)古墳の多い地区で、戦後も土の道が掃き清められ土間のような道だったことを記憶しています。


生目地域の文化遺産パンフレット(裏面)各地にこの紙芝居に出てくるような地頭がいたと思われます。現代はどうなのでしょうか•••


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2021年3月13日

坂本正直は長い間、鹿屋市のハンセン病療養所「星塚敬愛園」で島比呂志さんが創設された同人誌『火山地帯』の表紙やカットを描きました。差別や偏見に憤り、自分の出来る絵を描くことで声援を送り続けました。画像2枚目は、島さんがほとんど見えない目や手で、同人の方々の小説の題名を書かれています。1枚目の画像のカットを何回も使われていることを伺い知ることができます。何百枚と遺されたカットは「立命館大学国際平和ミュージアム」にこの度、所蔵されました。次世代へ伝えられることを願っています。

『火山地帯』カット
『火山地帯』カット
『火山地帯』カット


霧島連峰
霧島連峰(裏面)


『火山地帯』表紙同人誌『火山地帯』です。


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2021年3月21日

2016年5月、ハンセン病療養所「星塚敬愛園」のある鹿屋市で『「火山地帯」島比呂志と坂本正直』展を開催しました。
2回の戦争から上陸した錦江湾の絵やその他資料類多数と写真家芥川さん映画監督鵜久森さんの協力を得て開催しました。
不思議なことに7年に1回しか回ってこない「ハンセン病市民学会」が、この時同じ鹿屋市で開催されました。

「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真
「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真
「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真


「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真
「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真


【1枚目】島比呂志さんの著作資料類の一部です。
【2枚目】坂本正直が同人誌『火山地帯』に描いた表紙絵の一部です。
【3枚目】「引揚げ 帰国上陸 鹿児島 1946年3月5日」 焼け野が原の中に土蔵が残っているのが見えます。
【4枚目】芥川仁さんの写真と奥は、坂本正直クリークの月シリーズ作品です。
【5枚目】島比呂志さんのスナップ記録写真と『火山地帯』カット原画、同人誌一部など資料コーナーです。

『火山地帯』現編集長の立石富男さんに会場や資料類など沢山、助けて頂きました。2014年、宮崎で「坂本正直生誕100年没後3年展」を開くのにあたって、「火山地帯」のことは大切だと考え、鹿屋市へ伺いました。裏に島比呂志さんの直筆が彫り込まれたカットの数々を見た時に2年後に鹿屋市で開催することを決めました。陸の孤島のような「星塚敬愛園」へ伺ったり、アートスペースで開催しながら資料などを集めて2016年に開催することができました。


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2021年3月28日

宮崎県立美術館よりお知らせです。ご高覧頂けましたら幸いです。
宮崎県立美術館の所蔵作品を紹介するコレクション展。郷土作家はもちろん、海外の著名な作家の作品も多数紹介しており、県外から来られたお客様にも大好評をいただいています。コレクション展は年に4回、多彩なテーマを設けて開催します。
令和3年度のコレクション展において「没後10年 坂本正直」展が開催されます。
開催期間は9月18日(土)から12月14日(火)までです。
皆様のお越しをお待ちいたしております。
「宮崎県立美術館第4期コレクション展」開催のお知らせ
宮崎県立美術館 「第4期コレクション展」

貨車にのせられて 1937年の夏
貨車にのせられて 1937年の夏
1988 1,621×2,606 油彩•カンヴァス
宮崎県立美術館 所蔵


「貨車にのせられて 1937年の夏」のってではない。馬も兵士たちも貨車にのせられて戦場へと送られました。どこの国の兵士たちも馬たちも•••


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2021年4月29日

今年度宮崎県立美術館年間予定カレンダーやポスター掲載作品です。
これより以前の作品、私は「黒の時代」とよんでいますが、全体が真っ黒でわずかにワムとか貨物列車の番号とが読み取れる作品がありました。ただただ毎日黒を叩きつけるように描き続けていました。70年代だったかと記憶します。何枚も何年も描き続け、それからしばらくして少しずつ色が出てきて、馬の蹄が暗闇から浮かび上がるようになり、馬の顔が現れるようになりました。リトグラフ作品は、宮崎大学へ講師として出かけている頃に学校のプレス機で、学生と一緒になって何枚もチャレンジした作品かと思います。学生たちには「難しいことは考えんでいっちゃが、やってみらんね」と言っていたらしいです。

貨車にのせられて 1937年の夏
貨車にのせられて 1937年の夏
1988 1,621×2,606 油彩•カンヴァス
宮崎県立美術館 所蔵
貨車のなかの馬たち
貨車のなかの馬たち
1976 470×331 リトグラフ 4/10
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
貨車にのせられて (日豊線)
貨車にのせられて (日豊線)
1976-77 1,620×1,300 油彩•カンヴァス
都城から「勝哉号」と共に貨車で (裏面記載)


戦いの日の患者たち
戦いの日の患者たち
1976 338×517 リトグラフ 2/10
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵


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2021年5月7日

橋本誠一さんが生前、坂本正直について書いて下さって、何冊も丁寧に製本して下さった本ををアップしました。
坂本先生の個展を顧みて

競馬場の杉
クリークの月 馬が見ていた


坂本先生の個展を顧みて』の全てのページがスマートフォンでもきれいに表示されるようになりました。
橋本誠一さんによる克明な記録です。手書きの文字にも頭が下がります。数回お会いしたことはあったのですが、詳しいお話を伺うこともなく亡くなられました。もしよろしければご覧ください。


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2021年5月25日

坂本正直は、ストローク、黒の時代を経て、70年代から80年代中国へ何度も旅するようになります。お坊さんたちと一緒に。
宮崎、真栄寺ご住職に誘われて敦煌、トルファン、ネパールへ。
正に自分自身の「求法の旅」。その地の砂を持ち帰り作品に混ぜ込み、戦友や馬たちの鎮魂を描き続けました。
真栄寺
橋本誠一さん記録p49に地図が掲載されています。『坂本先生の個展を顧みて
真栄寺にこの度寄贈
よろしければご覧いただけましたら幸いです。

ゴビタンの布隆吉を行く 三藏法師玄奘
ゴビタンの布隆吉を行く 三藏法師玄奘
1985 727×1,167 油彩•カンヴァス
泉に馬を連れて行く 三藏法師玄奘月牙泉(敦煌)
泉に馬を連れて行く 三藏法師玄奘月牙泉 (敦煌)
1985 803×1,167 油彩•カンヴァス
火焔山と高昌故城
火焔山と高昌故城
1985 1,120×1,455 油彩•カンヴァス


Sketch (Landscape) 5 sheets set
寒山寺 1978.10.31 (左上)
虎立斜塔 1979.7.31 (右上)
珠江 79.10.21 p.m.2:35 (左下)
広州 珠江 ’79.10.22 (中下)
蘇州 虎立斜塔 1979.3.31 (右下)
芀州の雨
芀州の雨
1979.3 652×803 油彩•カンヴァス


釈迦生誕の地釈迦生誕の地


釈迦誕生の地(裏面)ネパール ルンビニ 2005年 坂本正直91歳 生家建具の戸に描いています。


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2021年6月8日

坂本正直は、2回の戦争から帰国すると中学校の美術教師をしながら精力的に活動します。
川原一之さん作「十連寺柿」を紙芝居に頼まれ制作しました。
https://www.asia-arsenic.jp/ctrl-hiso/wp-ontent/uploads/2017/02/kamishibai.pdf
宇井純さんの助言で、電気の無い所でも伝えることができるように紙芝居仕立てにしました。
現在、紙芝居「十連寺柿」は土呂久で語り部をされている佐藤マリ子さんの所にあります。
次の世代に伝えること、無かったことにしないこと、その思いは脈々と受け継がれています。

「十連寺柿」24 紙芝居
紙芝居「十連寺柿」から。
「十連寺柿」(紙芝居)のタイでの上演会
タイでの様子です。
宇井純さんの文章より。
宇井純さんの文章より。


「十連寺柿」(紙芝居)のタイでの上演会
タイでの様子です。


「アジア砒素ネットワーク宮崎」は、バングラデシュに井戸を掘ったり活動を続けています。 アジア砒素ネットワーク


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2021年6月12日

坂本正直は、鹿屋市星塚敬愛園(ハンセン病療養所)の島比呂志さんが創設された「火山地帯」に長期にわたってカットや表紙絵で協力していました。
共に生きること、無いことにしない、後世に伝えることの強い思いからです。
映画「一人になる」 6/12-18 am10:00~ 19-25am10:30~ 元町映画館
監督の高橋一郎さんが、6/4シンポジューム席上で亡くなられました。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021060800998&g=soc
多くの方にご覧いただきたいと願います。

「火山地帯」表紙絵の一部より。
「火山地帯」表紙絵の一部より。
「火山地帯」表紙絵の一部より。
「火山地帯」表紙絵の一部より。


「火山地帯」表紙絵の一部より。
「火山地帯」表紙絵の一部より。
「火山地帯」カットの一部より。
「火山地帯」カットの一部より。


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2021年7月16日

芀州の雨坂本正直記念館」ホームページを新しくしました。
それぞれの項目をクリックしていただきましたら作品や情報が出て参ります。
坂本正直は後年、何度も中国を訊ねています。
特徴的な木の並木に心、動かされたのでしょうか。穏やかな雨が降っています。
砲弾の雨が降るのではなく•••


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2021年8月2日

勝哉号はここにおけ坂本正直、2008年最晩年95歳の時にこの大作を仕上げます。1200×1620 油彩 カンバス
勝哉号はここにおけ
身長160cm弱、ほとんど立ち、手をあげての制作だったかと思われます。
狭い部屋で、ほとんど距離も取れない中で描き、伝えたかったことは•••
1937年11月 杭州湾に上陸してから泥濘の道と急行軍で弾薬を積んだ輓馬車輌をひくことができなくなった。
勝哉号は、小行李の部隊について歩くのがようやくとなった。
南京の近くで起伏の多い野原であった。
そこに、勝哉号をとうとうおくことになった。
夕陽が野原を斜めに照らしていた。こがね色の空に立ってこちらを見ている勝哉号を振り返りふりかえり別れたわたしは部隊に追いつくために急いだ。

作品目録


転戦─馬部隊同じ2008年に「転戦─馬部隊」大作を描いています。敵国だと教えられた地は、同じような美しい自然が拡がり、同じような人々が暮らし、戦争に駆り出され、人間も動物も巻き込まれて•••悲惨そのものですね。二度と繰り返すことの無いように祈るばかりです。


馬敗戦の次の年に帰国してすぐの頃は、須田国太郎さんの影響を受けた具象表現を多く描いています。日本も中国も同じような農村風景に深く思うところがあったかと思います。
(絵画の中に数字が描き入れられていることについて) 23は、部隊の番号だと思いますが、47は、数字として美しいと考えていたかもしれません。
(47は歩兵47連隊のことであり、1925年に第6師団に編制された歩兵47連隊は歩兵23連隊と共に第6師団隷下部隊であった。その転戦ルートは軍歴と一致している。(2018年に参加した南京ツアーの通訳兼研究者の戴国偉様より))
戦争のことについては、一言も話してくれたことがありません。長い間、自分の中に閉じ込めて生きてきて、晩年になってやっと語るようになって来ました。


馬の群1956年頃になると台湾で出会った塩月桃甫さんの紹介で山口薫さんに出会い、明るいモダンアートを描き続けます。戦争の記憶を押し込めるように。


廃馬60年代になるとストロークの作品に少しずつ陰りが差してきます。明るい絵ばかりを描いていいていいのだろうかと自問自答の作品群が続きます。


満鉄 貨車にのせられて (満洲)現在は残っていないのですが、私が勝手に「黒の時代」とよんでいる真っ暗な作品が続き、載せてくださった作品、「満鉄 貨車にのせられて」に繋がっていくかと思います。


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2021年8月15日

2014年宮崎県立美術館『坂本正直没後3年生誕100年展』での堀尾貞治さん。背景に制作途中の作品、アトリエ外壁、「勝哉号はここにおけ」 「8月15日の空•敗戦」の作品が見えます。
坂本の絵筆を使ってパフォーマンス♪記念撮影♪「水形にチョーク」水が流れつくところまでチョークで描き続けていた少女は、今は20歳くらいになられているでしょうか。それぞれの心に、「あたりまえのこと」 「難しいことは考えずにやってみること」このときの「空気」がのこっていることでしょう。坂本正直もまた「難しいことは考えんでいっちゃが、やってみらんね」といつも言っていました。この時、次回は宮崎の人たちと開催しようと思いました。最後の画像は、96歳で倒れるまで描き続けた大作です。「今も何処かで戦争が起ってるじゃないですか」平和への願い、何処の国にも美しい自然が拡がり、人々の生活があり、二度と戦争を繰り返すことが無いようにと祈るような気持ちで描き続けていたのでしょう。

8月15日の空•敗戦
「坂本正直没後3年生誕100年展」の写真


「坂本正直没後3年生誕100年展」の写真
「坂本正直没後3年生誕100年展」の写真
(不明)


土呂久の紙芝居『十連寺柿』堀尾さんが右手に持っておられる拍子木は、土呂久の紙芝居『十連寺柿』が川原一之さん、芥川仁さんによって全国行脚された時から使われたものです。
土呂久 砒素のミュージアム


土呂久の紙芝居『十連寺柿』こちらの方が拍子木が見えるでしょうか。


宮崎駅•RTO─高千穂通り坂本正直作品を所蔵する高校の美術部の皆さんにも2012年、14年に手伝って貰いました。1年の時と3年の時と2回手伝って下さった学生さんもいました。
宮崎駅•RTO─高千穂通り


宮崎県立宮崎大宮高等学校美術部集合写真坂本も通った旧制宮崎中学(現大宮高校)の美術部の皆さん。22歳くらいなられているでしょうか。
宮崎県立大宮高等学校(旧制宮崎中学校) 所蔵作品


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2021年9月8日

宮崎県立美術館にて9/18-12/14 「第3期 コレクション展」開催。
『没後10年 坂本正直』坂本正直は、この輜重一等兵のことを手記の中で、自分より余程、馬を愛して、陰ひなたなくと書いています。飯盒の中には遺骨が•••ご高覧頂けましたら幸いです。 宮崎県立美術館

戦死輜重一等兵
戦死輜重一等兵
宮崎県立美術館 所蔵
不明 油彩•カンヴァス
戦死した輜重一等兵
戦死した輜重一等兵
宮崎県立美術館 所蔵
1974 1,621×1,303 油彩•カンヴァス


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2021年9月26日

坂本正直は油彩作品の他に製本にも興味があって手がけました。
製本した作品 小冊子
「はんぴどん」の挿絵も描きましたが(新聞記事右側画像)はんぴどんの扮装をして見せたりしました。「やってみらんね」
座間賢侑様より提供された資料

『青葉城』
『青葉城』
「とんち者 “はんぴどん”」 宮崎日日新聞 昭和63年1月9日 | 座間賢侑様より提供された資料


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2021年11月14日

「もういいかい~ハンセン病と三つの法律~」を初め、多数のドキュメンタリー映画を製作されたプロデューサー鵜久森典妙さんが11月6日亡くなられました。享年73歳。 鵜久森典妙監督ご逝去のお知らせ
坂本正直は「火山地帯」の創設者、島比呂志さんの依頼で長年、表紙絵やカットを描き続けました。2016年5月11日~5月15日鹿屋市で「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」を開催するにあたって「もういいかい~ハンセン病と三つの法律~」を上映しました。ちょうど同じ時に7年に一度廻って来る「ハンセン病市民学会」が開催されました。まったく知らず奇跡としか思えませんでした。挿画集を発行しました。
『火山地帯』と私

「火山地帯」表紙絵
「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真
「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真


「火山地帯─島比呂志と坂本正直─」展の写真


① 同人誌『火山地帯』表紙原画1989年~2004年 32×41 (油彩•画布) 8点
② 同上 カット原画 150点
③ 島比呂志書簡類 数点
④ ハンセン病、火山地帯、資料類 書籍類 年表 他
⑤ 『火山地帯』掲載誌 他
⑥ 「帰国上陸─鹿児島 1946」 (油彩•画布) 162×162
⑦ 鹿児島を題材とした作品、他 (100号 20点~30点)
⑧ 島比呂志、坂本正直 写真 資料 他多数展示しました。


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2021年11月21日

宮崎県立美術館で開催中の「没後10年坂本正直」12/14まで。 宮崎県立美術館
同館で2014年に開催の時は堀尾貞治さん島田誠さんに来てもらいました。その時、中学生だった人たちは今、大学生でしょうか。
清水聖策先生には、ギャラリートークをお願いしました。

「没後10年坂本正直」展の写真
「没後10年坂本正直」展の写真
「没後10年坂本正直」展の写真


「没後10年坂本正直」展の写真


【1枚目】坂本正直が赴任したことのある宮崎市立生目中学校の美術部の学生が、堀尾さんのパフォーマンスに沢山参加してくれました。公園で遊んでいた子どもたちも、それぞれに8年の歳月を重ね、あの時のことを覚えていることと思います。

【2枚目】搬入時、坂本正直作絵、川原一之さん作の『十連寺柿』の紙芝居とともに芥川仁さんと紙芝居に登場する佐藤さんのお孫さんに手伝って貰って展示しました。

【3枚目】島田誠さんに「ギャラリー島田」で作品展示、荒木菫さんに表現していただいた時の山口さん撮影の画像を観ながら講演をしていただきました。後ろ左は、同時手話通訳です。全部の講演に手話通訳していただきました。

【4枚目】清水聖策先生ギャラリートーク。楽しく、そして知らない坂本正直を沢山語っていただきました。

宮崎市立生目中学校─レ•ミゼラブル坂本正直が「生目中学校」に赴任したころは、戦後まもなく親御さんを亡くした子やハンディーのある子も多くありましたが、皆が大切に扱われるように走り廻っていました。その頃のアルバムより。 アルバム


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2021年12月8日

1937年11月 杭州湾に上陸してから泥濘の道と急行軍で弾薬を積んだ輓馬車輌をひくことができなくなった。
勝哉号は、小行李の部隊について歩くのがようやくとなった。
南京の近くで起伏の多い野原であった。
そこに、勝哉号をとうとうおくことになった。
夕陽が野原を斜めに照らしていた。こがね色の空に立ってこちらを見ている勝哉号を振り返りふりかえり別れたわたしは部隊に追いつくために急いだ。
資料提供 : 都城市立美術館
※ 都城市立美術館所蔵の「南京で別れた日」裏に上記の文章が書かれています。
勝哉号 1937年(昭和12年)徴用
飼主 上村清之進 都城市下川原2丁目
坂本正直は、勝哉号を主題にした絵を多く描いています。
都城市立美術館にも「雨の日」「クリークの月」があります。
軍歴マップ
都城市立美術館所蔵作品

馬は帰ってこない 中国から
馬は帰ってこない 中国から
宮崎県立美術館 所蔵
油彩•カンヴァス
勝哉号はここにおけ
勝哉号はここにおけ
2008 1,200×1,620 油彩•カンヴァス
命令•勝哉号は歩けん ここにおけ
命令•勝哉号は歩けん ここにおけ
2006 1,300×2,200 油彩•カンヴァス


戦死輜重一等兵
戦死輜重一等兵
宮崎県立美術館 所蔵
油彩•カンヴァス


12月14日まで宮崎県立美術館「コレクション展 没後10年坂本正直」開催中です。 宮崎県立美術館

何処の国でも戦になれば、人間も動物も自然も破壊されますね。二度と戦争を繰り返して欲しくないですね。

長い間、心の痛みに苦しんでいたようです。何度もの中国訪問の後、沢山の絵を描き、亡くなるときには、荒野を旅し続けた僧のようにやせこけていましたが安らかな顔をしていました。


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2021年12月12日

坂本正直は、1937年(昭和12年)12月13日 南京大虐殺の記録を大作、何枚もの絵に遺しています。インタビューに対して「その時、こうこうでしたという記録ですね。」と語っています。
軍歴マップ
加害性告発と考えられる作品

莫愁湖
莫愁湖
1977 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
スケッチ (風景) 4枚組 (紫金山)
莫愁湖─馬が見ていた
莫愁湖─馬が見ていた
1983 1,350×1,950 油彩•カンヴァス


ぬかる道 抗州湾に上陸して (十二年十一月)
ぬかる道 抗州湾に上陸して (十二年十一月)
1985 803×1,303 油彩•カンヴァス


【2枚目】左上 : 南京の中山陵(中山は孫文氏の別名で中国民主革命の先駆者として知らない人がいないほど)は孫文の陵墓。「時折砲声がしていた」と記されているが、恐らく当時近くに砲兵部隊の演習していたものと思われる。陵墓は紫金山と言う山の中腹にある。
右上 : 最初の莫愁湖が出てきた、その下に水西門(城壁の城門の一つ)更に玄武湖となっている。
右下 : また莫愁湖が登場、小さい文字が判明できず残念だがその下に中華門と記されている、続いて城外と城内(城壁を境に内外分ける)とある。
左下 : 無梁殿 霊谷塔の近くにある明の時代の建物、梁や桁が使われていないことから無梁殿と称す。背景にある山は紫金山
(2018年に参加した南京ツアーの通訳兼研究者の戴国偉様から作品の解釈をお送りいただきました。

【3枚目】銃剣のようなものが見受けられます。


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2021年12月28日

坂本正直作品がこの度、「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」に加害性大作作品を中心に58点所蔵されました。

中国の兵隊が殺されるのを最初に見た時には、飯も食えんかったのに 1年経ち、2年経ち、3年経つと無神経になって、平気で殺されるのを飯を食いながら見ているような精神状態になっていたのです。
この絵は、皆と一緒に土手に腰かけて飯を食っていたところが、殺される捕虜の手が飛んできた。
それを描いている。
私の場合、その時、自分はこうこうであったという反省、鎮魂ですね。それで救えるわけです。自分が。
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館所蔵作品

手榴弾─ながめていた


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2022年3月17日

坂本正直は、2005年『RAPIA』(宮崎日日新聞)の中で、「でも、変わっていく姿を見てきた者として、知らんふりするわけにはいかんでしょうが。」と語っている。今、生きていたら何というだろうか。
坂本正直記念館

宮日ホームマガジン「らぴあ」 vol.122 宮崎日日新聞社2005 8
宮日ホームマガジン「らぴあ」 vol.122 宮崎日日新聞社2005 8
宮日ホームマガジン「らぴあ」 vol.122 宮崎日日新聞社2005 8
宮日ホームマガジン「らぴあ」 vol.122 宮崎日日新聞社2005 8


えのき
えのき
私と樹の物語
不明 1,455×1,120 油彩•カンヴァス


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2022年4月10日

坂本正直作品が所蔵される「高鍋町美術館」に於いて、9/23(金•祝)→3/26(日)【有料】常設展が開催されます。もしもよろしければ、ご高覧頂けましたら幸いです。
高鍋町美術館の展覧会スケジュールを掲載しました。 高鍋町美術館 展覧会スケジュールのお知らせ

坂本先生のことば (1995年秋から96年春にかけて坂本先生の自宅で話をうかがいました。聞き手 木村麦)
「坂本正直さんが語る 私のなかの風景─『玄奘三蔵法師 求法の旅』展にあたって」から抜粋
■ 「玄奘三蔵法師 求法の旅」は私の新しいシリーズということです。(中略)/1300年前の三蔵法師の旅を旅しているわけです。昔、三蔵法師が見られた星や月をその場で見ている。時代を越えてつながっていると実感しました。火焔山など三蔵法師が眺めたときと同じでしょう。高昌城を出発された馬上の三蔵法師が木が一本も生えていない火焔山を眺められた。制作中に、そのときのお月さまの具合いはどうかとか、夜中に起きて確認したりですね、そんなこともありました。/それに今回、敦煌あたりは敦煌の砂を、火焔山には火焔山の砂を油絵の具に混ぜています。
■ 今の宮崎市生目の跡江が私の生まれ育った古里です。(中略)私は農村の恵まれた自然のなかで成長することができました。そして田園の風景が私の心にしみついています。どこに行っても、この古里の田園風景を懐かしく思い出しました。
■ 美校の願書をもらって準備をしていたら、招集でした。招集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年、昭和12年の7月でした。父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない古里の風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。
■ 私たち輜重兵が歩兵の後から上陸し出発した日はぬかり道で、一日に一キロほどしか前進できないような状態でした。どこに行くか知らされていませんでしたが、一路、南京を目指したのです。約一か月、すべて歩いたわけです。(中略)/そこで馬が参ってしまいました。都城でわたった馬です。痩せた農馬でかみつくし、くせのある馬でした。勝哉号です。(中略)もう歩けないのです。南京に着く前の夕方、野っ原の別れ。呆然と立っていました。
■ 漢口の戦闘も終わって山岳戦に入る前のことです。道路上に死体が2、3体あって、その上をトラックがダーッと通る。(中略)周りはほこりだらけでした。私たちはトラックが通るのをじっと待っているわけですが、その死体が道路からはげて動くのです。言いようのない光景でした。そんなこともありました。
■ 「輸送船にのせられて」「貨車にのせられて」の絵は、後から描き出した戦争体験の記録とは違うわけです。最初の頃は受け身的でしたが、「クリークの月」「人間が人間を」になると、自分が戦場でやっていたことに対する反省とか、心理状態が異常になったこと、を描いています。そういう状態になってしまう人間、そういう場に行ったら自然とマヒしてしまう人間をですね。/飯盒を描いていますが、飯を食器であるのと同時に、あれは戦友の死を表しているのです。骨を焼いて飯盒に入れるものと決まっていたのです。
■ 私にとって、大きく言えば、戦争シリーズをいかに、どういうふうに描くか。角度を変えたり、表現方法も時代とともに変わっていくということはありますが、死ぬまで繰り返し同じテーマなのです。/今、戦争シリーズの第二部の個展を考えています。筆を動かさねば、カンバスに塗り込めねば、解決できないことですから。三蔵法師の個展が済んでからじわじわかかろうと思っています。

玄奘法師 麹文泰 火焰山を右にながめて
オリオン星座
玄奘三藏法師求法の旅 高昌城の使者


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2022年4月28日

坂本正直は、2回の戦争を経て帰国し1950年代は、具象の絵を描いていた。60年代に入ると師事した山口薫の影響を受け抽象作品を描いた。70年代に入ると戦争で経験したことを隠していてもいいのだろうかとほとんど真っ黒な作品を描き続けた。70年代後半になると「人間が人間を」など、戦争は人間を変えてしまうという告発の絵を描き続けた。

自画像
自画像
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
未分類
1950 647×534 油彩•カンヴァス
馬の群
馬の群
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
馬と私
1956 1,620×1,310 油彩•カンヴァス
若駒
若駒
馬と私
1962-85 1,165×768 油彩•カンヴァス


輸送船の中の馬
輸送船の中の馬
クリークの月 (戦争)
1969-3 1,455×1,123 油彩•カンヴァス
戦争 (人間が人間を)
戦争 (人間が人間を)
会員 (裏面記載)
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
クリークの月 (戦争)
1978-79 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


【1枚目】昭和25年の夏
生目村大字跡江の家で
この自画像を描く
跡江の家わらぶき
納戸のおだれ屋根に
光線入れをつくった。
バックは鳥海の静物画
色にかかれたものを
心にとめ気合をかけて描いた
のを覚えている
その時は東の縁側で描いた。
林武先生が武蔵野美術学校で
このバックだけは ほめてくれた
坂本繁二郎と親戚かと
聞かれるなど…26年夏

絵裏に貼られたベニヤ板に記述
宮崎県美展、初受賞作? (2回の従軍から帰国し、35歳頃?)


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2022年6月4日

坂本正直作品。いずれも侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵「殺さないでもよかったんじゃないか」という反省があるんです。
南京の街の中を流れるクリークといわれる運河に月が明るく照らし出しています。一人で見張りをしていた時に急に物音がして、中国人が現れ、驚いて思わず引き金を引いてしまいました。
その人を殺さずに、その人がずっと向こうへ行くのを見過ごしてやってもよかったんじゃないかという反省があるのです。
制作年不明となっていますが、1977年~76年頃に描かれた作品かと思われます。
坂本正直記念館

(不明)
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1,120×1,940 油彩•カンヴァス
(不明)
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1,500×1,940 油彩•カンヴァス
(不明)
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1,500×1,940 油彩•カンヴァス


クリークの月62-1
クリークの月62-1
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1976-77 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


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2022年6月13日

坂本正直は戦地、台湾から帰国した1946年3月の同じ年の秋に画像『ふるさとを訪ねて』を台湾でお世話になった木村太郎さんに宛て描いています。その中に「八紘一宇」の文字が見えます。今も日本の各地にあることに••••
ふるさとを訪ねて

ふるさとを訪ねて
ふるさとを訪ねて
ふるさとを訪ねて


ふるさとを訪ねて


坂本正直は、昭和17年11月1日(1942年)に『みなみのくに』という冊子を描いています。台湾の風景や生活を描いています。敵国だと言われる国にもそれぞれに美しい自然や暮らしがあることを遺言のように描いておこうと考えたかと思われます。そこから4年後、無事に帰国し、田植えをすぎた頃に遠方より訪ねて下さった木村太郎さんに感謝を込めて『ふるさとを訪ねて』を描いたかと思われます。


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2022年6月19日

坂本正直は昭和17年11月1日、二度目の召集で台湾の戦地にて『みなみのくに』を飯盒の蓋に竹を削ったペンで描いています。
最晩年、最晩年、塩月桃甫さんの絵を指しながら語ったことによると「従軍絵師の藤田嗣治さんと塩月桃甫さんが船の上から戦地を訪ねてくれた。塩月さんは、兵舎まで来てくれて絵の具と筆をくれた。嬉しいかった」と話してくれました。中国での戦争で地獄を見、そして二度目の戦地で希望を失っている時に、どれだけ勇気づけられたでしょうか。その絵具と筆なのか今となっては分かりません。ただ、敵国と言われる台湾の自然や人々の暮らしを愛情を持って描いていることは伝わります。新聞社にカットを描いて送って人々の暮らしを描いていたものも愛情がこもっていたように記憶しています。下記より『みなみのくに』1942年作を全部をご覧いただけます。戦後、帰国してから装丁したかと思います。
みなみのくに

みなみのくに
みなみのくに
みなみのくに


みなみのくに


スクラップブック坂本正直が、一回目の戦争へ行く前に画像のようなものを書いています。遺書のようなものだったのでしょうか。二度目の戦場、台湾へ行くときは墨と落款に使っている印は戦場にこっそりと持ち込んだのでしょうか。今となっては、わかりません。


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2022年6月26日

坂本正直は1977年(63歳)『わたしの戦争体験の記録』という個展を開き、同時に図録 (『画集•わたしの戦争体験の記録』) を出版しています。その中に、「わたしは、スケッチをしている時、戦地にきていることを、すっかり忘れていた。」 「軍服のポケットに入れていた手帳にえんぴつで描いて、どろをぬりつけた。どろでよごれた手で」と書いています。軍隊手帳にエンピツで描いています。
スケッチメモ
真ん中の左より四枚目に「涿県城内」と注釈してあります。北京に近い河北省の中の小さな街で今は涿州市となっています。一回目の召集で「淶水県(河北省保定市)昭和12年8月20日~9月20日 板橋村付近の戦闘に参加」の淶水県のすぐ傍です。今の涿州の塔です。恐らくこの一連のスケッチはこの街関連のものと思います。
(2018年に参加した南京ツアーの通訳兼研究者の戴国偉様から作品の解釈をお送りいただきました。)
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵

スケッチメモ
涿州の塔
涿州


手元からは無くなってしまった戦地から新聞社に連載した記事が、この図録の中にありました。


同じ図録に”昭和12年の秋、北支から転戦して、上陸したのが、膠州湾であった。そこには、内地(日本)そっくりの風景が、目前にあった。驚きと感動をもってみつめた。抜粋
1973.12.2 宮崎県俳句研究会「流域」10号からの転載。


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2022年7月10日

坂本正直は、1966年くらいまで抽象作品を描いていましたが、画布を黒く描くようになり戦争体験を描くようになりました。
ベトナム戦争のことが影響したかと考えられます。
作品展の画像をホームページに掲載しました。 作品展
寄稿文は資料のページに掲載しています。 資料
日中戦争の写真は「日中戦争について」のページに掲載しています。 日中戦争について

馬よさようなら
馬よさようなら
馬と私
1968 1,620×1,122 油彩•カンヴァス
出発準備
出発準備
クリークの月 (戦争)
立命館大学国際平和ミュージアム、宮崎県遺族会館 所蔵
1940-1941 401×527
戦争─ (人間の命)
戦争─ (人間の命)
クリークの月 (戦争)
1976 1,120×1,940 油彩•カンヴァス


「わたしの戦争体験の記録」 リーフレット


【2枚目】1941.3 11回 独立美術協会展
画像作品は1976年にリトグラフ作品として同じ構図で作成したものです。
1976 401×527 リトグラフ 3/10

”出発準備”は 昭和20年8月12日の昼、B29が投下した焼夷弾で県立宮崎中学校の校舎とともに焼失してしまった。
中国(中支)から帰った、昭和15年•画箋堂(京都)で描いて、独立展に出品した。
いつかまた、召集がくるかわからない不安があった。
16年の夏、すでに中国からいっしょに帰った戦友は、また召集をうけて戦場に送られていた。
太平洋戦争が、この年の12月8日に始まった。
2回目の召集が、きたのは17年の夏であった。
(「わたしの戦争体験の記録展」のパンフレットより)

【3枚目】戦争─人間の命─
 昭和13年•中支─
人間の顔と体が するめいかのようになって道路にへばりついていました。
その上を誇りをかぶった軍用トラックが通過した
通過するたび ほこりのなかで 動いているのが見えた
わたし共小行李の兵隊は ほこりをかぶりながら 車輛をつけた馬の たずなを持っていた
出征して1年たった兵隊の神経は 平常ではなかったことは たしかです
戦場で つくられてゆく精神状態は どんなものか
どんなもので あったかを描いてみたかった

坂本正直


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2022年7月31日

都城市立美術館にて開催中「いきもののけはい」に所蔵作品中3点坂本正直作品が展示されています。都城の農家から駆り出された馬「勝哉号」。弱りはて南京に命令により置かざるをえなかった馬です。ご高覧頂けましたら幸いです。
都城市立美術館

勝哉号 (3-1) クリークの月
勝哉号 (3-1) クリークの月
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス
勝哉号 (3-3) 南京で別れた日
勝哉号 (3-3) 南京で別れた日
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス
勝哉号 (3-2) 雨の日
勝哉号 (3-2) 雨の日
第3回日日会展 (1983 都城市立美術館)
都城市立美術館 所蔵
1984 1,623×1,123 油彩•カンヴァス


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2022年8月14日

坂本正直は、「敗戦の日」の作品を何点か描いています。この作品には、当時の新聞や無駄になった勲章と軍靴が描かれています。「莫愁湖」も最初は黒や青の点々が狂ったように叩きつけられ塗り込められていたかと思います。その怒りを収めるようにパレットナイフで削り、削り、静かな莫愁湖が月の光に浮かび上がって来ました。「ながめていた」作品も何点も描いています。
“中国の兵隊が殺されるのを最初に見た時には、飯も食えんかったのに1年経ち、2年経ち、3年経つと無神経になって、平気で殺されるのを飯を食いながら見ているような精神状態になっていたのです。
この絵は、皆と一緒に土手に腰かけて飯を食っていたところが、殺される捕虜の手が飛んできた。それを描いている。私の場合、その時、自分はこうこうであったという反省、鎮魂ですね。それで救えるわけです。自分が。”坂本正直は戦争加害を告発し続け、人間は戦争へ行くと神経が麻痺してしまうということを私たちに伝えています。
加害性告発と考えられる作品

1945年8月 敗戦の日
1945年8月 敗戦の日
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1983-85 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
莫愁湖
莫愁湖
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1977 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
手榴弾─ながめていた
手榴弾─ながめていた
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1980-81-89.6.18 1,303×1,940 油彩•カンヴァス


南日本新聞 2022年8月6日付コラム南日本新聞の8月6日のコラムに、都城市立美術館に展示中の作品について掲載されました。


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2022年9月23日

高鍋町美術館にて9月23日~3月26日まで、所蔵される34点中20点『坂本正直 玄奘三蔵法師の旅』が始まりました。
敗戦の次の年に帰国し、長い苦しみの抽象や黒の時代の作品を経て、自分自身の「求法の旅」を描いた作品です。ご高覧頂けましたら幸いです。
高鍋町美術館

文泰と玄奘法師の会見
文泰と玄奘法師の会見
玄奘三蔵法師 求法の旅
1,622×2,716 油彩•カンヴァス
オリオン星座
オリオン星座
玄奘三蔵法師 求法の旅
1996-2003 1,122×1,454 (F50号) 油彩•カンヴァス


めしを食いつつ見ていた他32点所蔵 (作品題名)
戦争を馬も見ていた (添付画像とは異なりますが、同じテーマで描いています。)
不東•夜明け前
釈迦山中を行く
釈迦山中を行く
沙漠に立つ玄奘法師
伏して観音経を唱える
惠琳を帰らせる
般若心経を唱える
般若心経を唱える
もう水がなくなる
観音経を唱える
玄奘法師を追いかける
ゴビ沙漠の朝
玄奘法師を狙う胡人
玄奘法師と胡人争う
胡人は玄奘法師を狙ったが
観音経読誦 (上弦)
不東•歩く
道整が逃げる
馬と語る玄奘法師
伊吾に向かって
玄奘法師を迎える麹文泰
玄奘法師に止まるように
麹文泰が見送る
疏勒河の水をのませる
胡人が玄奘法師の後ろから
瓜州を出発-強風
胡人を玄奘法師の前に
観音経•般若心経読誦 (下弦)
蜃気楼
天山南路へ行く 添付画像題名 めしを食いつつ見ていた 1995年モダンアート展に出展した作品です。


私のなかの風景


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2022年12月1日

坂本正直は1960年代に入ると師事する山口薫さんの影響もあり、抽象を毎朝4:00頃から出勤前に叩き付けるように描きました。
戦争の記憶を消すように10年くらい続いて、70年代に入ると真っ黒な絵に変化していきました。
高鍋町美術館にて「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」開催中です。
高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」開催のお知らせ

母性愛 (馬)


輸送船の中の馬
輸送船の中の馬
クリークの月 (戦争)
1969-3 1,455×1,123 油彩•カンヴァス


母性愛 (馬)【3枚目】キャンバスの裏には克明に記録を書いています。画像は、この作品の表です。


現在、開催中の「高鍋町美術館」より子ども劇団の子どもたちが団体で見に来てくれましたとお知らせがありました。
【常設展示室で対話型鑑賞を実施しました♪】


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2022年12月18日

坂本正直が、1951年に描いた団扇です。同じ頃に描かれた自画像
裏に”林武先生が武蔵野美術学校でこのバックだけは ほめてくれた坂本繁二郎と親戚かと聞かれるなど…26年夏”絵裏に貼られたベニヤ板に記述 同じ頃に描いた絵日記 よろしければご覧ください。
讃岐の旅
木村一郎様のFacebookにご紹介いただきました。

でんでん太鼓
自画像
自画像
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1950 647×534 油彩•カンヴァス


【2枚目】昭和25年の夏
生目村大字跡江の家で
この自画像を描く
跡江の家わらぶき
納戸のおだれ屋根に
光線入れをつくった。
バックは鳥海の静物画
色にかかれたものを
心にとめ気合をかけて描いた
のを覚えている
その時は東の縁側で描いた。
林武先生が武蔵野美術学校で
このバックだけは ほめてくれた
坂本繁二郎と親戚かと
聞かれるなど…26年夏

絵裏に貼られたベニヤ板に記述
宮崎県美展、初受賞作? (2回の従軍から帰国し、35歳頃?)


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2022年12月26日

アルバム


坂本正直は、旧制中学に在学中は、フランスへ勉強に行きたいと思っておりました。が、父親が証文を捺したために家は没落、戦争勃発と波乱の人生を歩むことになります。
(中略) ボロボロになったフランス語辞典が、ありました。本人も後に語っていますが、このような人生を歩んだから、今の絵を描くことができるようになったのでしょう。幼少の頃に自分用の判子を作ってもらい、子ども用雑誌を毎月取ってもらっていたようです。小学校へ上がるときには、机や羽織袴を誂えてもらったようです。父親(祖父)は、働かず琵琶を弾いたりしていたようです。螺鈿装飾のある筑前琵琶は今もあります。そのようなことが、絵の道に進むきっかけになったのかもしれませんね。
私のなかの風景

スクラップブックこちらが、祖父がつくった(つくってもらった)判子です。スクラップブックの1ページにあります。このスクラップブックは昭和12年頃からの記録が残されています。戦時中には、どこかに挟んで隠していたものを没収なども無くなった戦後にスクラップブックにまとめたかと思われます。現在は「立命館大学国際平和ミュージアム」に収蔵されています。下記はスクラップブックのページです。よろしければ、ご覧ください。
スクラップブック


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2022年12月26日

戦時色の中、二度目の召集令状がいつ来てもおかしくない師走。
坂本正直は、どのような気持ちで京都で働いていたでしょうか。
よろしければ下記もご覧いただけましたら幸いです。
スクラップブック
坂本正直について
軍歴マップ

小雨降る大文字山
はじめ


この2枚とカバー画像の1枚は、無造作にたたんでスクラップブックに挟んでありました。表装し、今は「立命館大学国際平和ミュージアム」に所蔵されています。
スクラップブック


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2023年1月4日

坂本正直は、昭和11年~12年(1937年)にかけて、遺書のような気持ちで書いて(描いて)いたのでしょうか。
戦前、戦中は、何処かへ隠していたのでしょうか?
戦後、スクラップブックにまとめたのでしょうか?
スクラップブック

スクラップブック
スクラップブック
スクラップブック


スクラップブック


【2枚目】この時代、髪を伸ばしていて大丈夫だったのだろうか?


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2023年1月11日

坂本正直は敗戦の翌年3月錦江湾より上陸、無事郷里に着きます。
中学校の美術教師をしながら子どもたちを二度と戦場へ送らない、精力的に活動。子どもたちの絵をあちこちの美術展へ出展していました。 アルバム
「日向夜話草」挿絵 新聞にもカットなど多数、掲載していました。
紙芝居なども制作していました。 三斗米騒動 (さんとめそうどう)
戦争については、まったく語りませんでしたが、平和を強く願っていたのだろうと思います。 馬と人

馬と人


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2023年1月18日

坂本正直は、この作品の裏に1991-2010年1月描くと記録しています。
この1年後に97歳で亡くなります。自分の死をある意味覚悟して、3回目の遺書として、加筆してわざわざ記したかと思われます。
戦死者を開戦当時は(戦死者を飯盒に入れていた)二度と繰り返さないことを強く訴えたかったかと考えられます。

戦死者を開戦の当時は
戦死者を開戦の当時は
戦死者を開戦の当時は


戦死者を開戦の当時は


坂本正直は教職を数年早く退職し、お坊さんと一緒に何度も中国やネパール、インドと旅をしました。帰国後絵にした「求法の旅」シリーズの多くが高鍋町美術館に所蔵され今、常設展が3月26日まで開催されています。ご高覧頂けましたら幸いです。
高鍋町美術館 展覧会スケジュールのお知らせ
高鍋町美術館所蔵の作品は、高鍋町美術館所蔵作品
本人も後年、NHKの取材の中で「その時は、こうこうでしたという記録ですね」 「鎮魂です」と語っています。


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2023年1月19日

無くなったと思っていた坂本正直作品が、画集の中にありました。
『画集•わたしの戦争体験の記録』1977年8月13日~24日宮崎県総合博物館で開催した時のモノクロ画集の中です。戦地から送ったカット新聞掲載記事もこちらに載っていました。宮崎空襲で焼失した油彩もこちらにありました。多分、当時は印刷技術が今のように高くなく、カラーは色が思うように出ないと考えたかと思われます。夏の一番暑いときに、敗戦記念日に併せたと考えられます。もしも今、生きて元気だったらどう行動しているでしょうか。画集はこちらです。よろしければご覧ください。
画集•わたしの戦争体験の記録

「画集•わたしの戦争体験の記録」より
「画集•わたしの戦争体験の記録」より
「画集•わたしの戦争体験の記録」より


「画集•わたしの戦争体験の記録」より


「画集•わたしの戦争体験の記録」より『戦線スケッチ』中国の人々の生活を愛情を込めて描いているように、まるで友人や自分の姿を観るように描いているのが伺えます。


「画集•わたしの戦争体験の記録」より新聞には掲載できない戦争の記録も描いています。手早く、文字もわざと判別しにくく書いているかと考えられます。戦中、何処にどのように隠し持っていたのかと思います。よく無事にやり過ごせたものだと•••


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2023年2月10日

坂本正直は1950年後半からストロークの抽象作品を描き続け(1枚目)、60年代には点描のような作品に移行し(2枚目)、黒の時代を経て、70年代には抽象の戦争シリーズを描き始めました。(3枚目)そして90年代になると子どもが観てもわかるような「馬がこうして吊り下げられて輸送船にのせられたんだよ」戦争は二度と繰り返すんじゃないよと絵を通して語り継ごうとしたかと考えられます。
作品目録
作品を年代順に並べています。作品名をクリックしていただきましたらそれぞれの作品をご覧いただくことができます。

馬 (B)
馬 (B)
1959 1,628×1,302 油彩•カンヴァス
老馬
老馬
1962-63 1,533×1,030 油彩•カンヴァス
輸送船のなかの空
輸送船のなかの空
1977補筆 (裏面記載)
1971 1,620×1,300 油彩•カンヴァス


馬を輸送船にのせる
馬を輸送船にのせる
1999 1,000×600 油彩•カンヴァス


戦場の写真坂本正直記念館ホームページの中のアルバムを少し下にスクロールしていただきましたらこの画像が出てきます。 (これは従軍カメラマンによる記録です。) 坂本は、カメラで捉えたのではなく、その時、自分の目のカメラで記憶したかと考えられます。
アルバム


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2023年2月19日

人間の顔と体が するめいかのようになって道路にへばりついていたいました。
その上を ほこりをかぶった軍用トラックが通過した 通過するたび ほこりのなかで動いているのが みえた
わたし共小行李の兵隊は ほこりをかぶりながら車輛をつけた馬の たずなを持っていた
出征して1年たった兵隊の神経は 平常でな
かったことは たしかです。
戦場で つくられてゆく精神状態は どんなものか どんなもので あったかを描いてみたかった
坂本正直「わたしの戦争体験の記録」p28より

戦争─ (人間の命)
戦争─ (人間の命)
1976 1,120×1,940 油彩•カンヴァス
アトリエの写真
アトリエの写真


展覧会の写真


【2枚目】「マリノ•マリーニ展」のポスターの下に「戦争─ (人間の命)」が見えます。
【3枚目】こんな狭い場所で200号を描いていました。
87歳のときです。ポスターは撮影するのに壁に貼っているのをわざわざ外して画布の上に掲げたかと思われます。
【4枚目】この頃は、まだまだ美術館で写真を撮ることは許されていませんでした。「いっちゃが、いっちゃがー」と自分の展では、どんどん撮っていました。撮っている人を撮って、それをまた撮っているユーモアのある父の記録をずっとして下さった橋本誠一さんです。
坂本先生の個展を顧みて

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2023年3月4日

坂本正直は1960年代~70年代にかけてモダンアート作品を制作。
ある程度の構図は考えていたものの制作に入ると思いをぶつけるようにストロークや点を集中的に描き続けました。
70年代後半になると黒の時代を経て「わたしの戦争体験記録」を描きました。1996年救いを求めるように「玄奘三蔵法師 求法の旅」の作品を描き上げました。その作品が高鍋町美術館に収蔵され3月26日まで展示されています。ご高覧頂けましたら幸いです。
高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」に子ども劇団の子どもたちが団体で来館されました。
玄奘三蔵法師 求法の旅 (1996年6月12日~23日) 宮崎県立美術館 県民ギャラリー

高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」に子ども劇団の子どもたちが団体で来館されました。
玄奘三蔵法師 求法の旅 (1996年6月12日~23日) 宮崎県立美術館 県民ギャラリー


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2023年3月11日

坂本正直の作品を郷里の方々が中心となって、「ふるさと生目二人展」を開催してくださることになりました。
4/14(金)~23日(日)宮崎市「生目の杜游古館」です。
ご高覧頂けましたら幸いです。
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」開催のお知らせ
高鍋町美術館は、3月26日までです。
高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」開催のお知らせ
過日、作品を観てくださった子ども劇場の上演が先日開催されました。
子ども劇団空風スマイルシアター演劇公演「たび TABI」のお知らせ

馬と貨車にのせられて
馬と貨車にのせられて
クリークの月 (戦争)
1985 1,120×1,445 油彩•カンヴァス
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」チラシ表面
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」チラシ裏面


【1枚目】左下に見えるのは、兵士の星一つ軍服です。いつも馬たちと一緒に貨車や船に乗せられました。

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2023年3月19日

坂本正直は、1973年8月8日~19日ルイ画廊にて個展を開催。
同時に発行された図録に美術評論家:朝日新聞編集委員の源弘道さんが、文章を書いてくださっています。
よろしければ、クリックして開いてください。
坂本正直個展 図録

輸送船の中の馬
輸送船の中の馬
1969-3 1,455×1,123 油彩•カンヴァス
貨車にのせられて
貨車にのせられて
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1976 393×266 リトグラフ
スケッチ (輸送船のなか)
スケッチ (輸送船のなか)
1971 379×188 コンテ•紙


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2023年4月13日

「ふるさと生目二人展」が4月14日(金)より始まります。
土呂久公害の紙芝居「十連寺柿」コピーも展示されます。
(画像は、アートスペースかおるで開催時の案内状です。)
ご高覧頂けましたら幸いです。
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」開催のお知らせ

ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」DM
十連寺柿 土呂久郊外と坂本正直


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2023年5月1日

宮崎での展を無事、盛会に終えることができました。
ご高覧下さった皆様、ありがとうございました。
宮崎日日新聞が大きく掲載くださいました。
宮崎日日新聞に当サイトが紹介されました。
会場に展示された作品の一つ、1950年代頃と思われます。裏にも絵が描かれています。何が描かれてあり、何を現わそうとしたのでしょうか。

不明
不明 (裏面)


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2023年5月28日

坂本正直は、ある時期から記録として絵を描くようになります。
画像2作品は今は閉館となっている「みやざき歴史文化館」に所蔵されています。
みやざき歴史文化館所蔵作品
画像4枚目は、この度、絵画教室に所蔵されました。
若い方に観て頂けることを願っています。
2011年に「ギャラリー島田」さんで開催させていただいた「光を求めて 坂本正直展」の案内とリンクを掲載しました。
光を求めて 坂本正直展 (2013年5月11日~16日) ギャラリー島田

RTO.跨線橋•宮崎駅
RTO.跨線橋•宮崎駅
1997 830×930 (枠) 油彩•カンヴァス
RTO.跨線橋•宮崎駅 (裏)
RTO.跨線橋•宮崎駅 (裏)
心にのこっている景色
心にのこっている景色
2003 1,940×1,303 油彩•カンヴァス


馬と貨車にのせられて
馬と貨車にのせられて
1985 1,120×1,445 油彩•カンヴァス
個人蔵 (美術教室)


【2枚目】1944年頃の高千穂通
跨線橋だけが焼け残った
〇 (通称丸通、日本通運) か駅前にテントを張って
昭和23年3月10日
みやざき歴史文化館 所蔵

【3枚目】心にのこっている景色
大正から昭和のはじめごろ
平成十五年秋作
2003年
以下は裏面記載
ふるさとの夕暮れ
(少年のころみた)
‘98─’99作
「馬と私」坂本正直展に展示
県立美術館 1999年

構想 1ふるさとの風景が、変わることを執念とも思える気持ちで描いていることが伺えます。
絵の解説も付けています。記録として絵を描いていることが伺えます。


構想 2戦争で、自然災害で、開発により風景は変わってしまうことをこの「歴史文化館」に期待を持って寄贈したことが伺えます。今は閉館となり誰に見られることも無くなりました。


出発準備美校の願書をもらって準備をしていたら、召集でした。
召集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年(昭和12年)の7月でした。
父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。
輜重兵として中国を転戦し、’40年に除隊になりました。

戦争の時代のなかで
坂本正直は古里の風景は、自然災害、戦争、開発により変化してしまうことを執拗なほどに記録として描き後世へ伝えようとしました。


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2023年6月25日

坂本正直は、”出征して1年たった兵隊の神経は平常でなかったことは確かです。戦場でつくられていく精神状態はどんなものであったかを描いてみたかった。”と記しています。
わたしの戦争体験の記録 坂本正直展 (1977年8月13日~24日) 宮崎県総合博物館 (特展室) パンフレット

戦争─ (人間の命)
戦争─ (人間の命)
1976 1,120×1,940 油彩•カンヴァス
負傷兵
負傷兵
1997 1,120×1,445 油彩•カンヴァス
宮崎県遺族開館 所蔵


【1枚目】人間の顔と体が するめいかのようになって 道路にへばりついていました。 ほこりをかぶった軍用トラックが通過した 通過するたびに ほこりのなかで動いているのがみえた わたし共小行李の兵隊はほこりをかぶりながら車輛をつけた馬の たずなを持っていた。

坂本正直は、1976年から77年にかけて、作品展の準備を克明に記録しています。新聞の切り抜きなども貼っています。
わたしの戦争体験の記録 坂本正直展 (1977年8月13日~24日) 宮崎県総合博物館 (特展室)

坂本正直は「負傷兵」を描いた1997年にいくつも誰が観てもわかるような、子どもにもわかる絵を描こうとしたことが伺えます。敗戦後、鹿児島の錦江湾から上陸した時のこと。「1946年3月5日帰国上陸─鹿児島」 「引揚げ帰国 桜島─雨」 引き上げ船内の様子。「引揚げ者•船内」 これは仕上がってないと思いますが様子はよくわかります。 日豊線に乗って宮崎駅にたどり着き様変わりしたふるさと。高千穂通を西向きと東向きに描いています。「家へ•高千穂通りを西へ」 「RTO.跨線橋•宮崎駅」 生家に着く前「牛の話で父の生存をしる」 84歳の時です。自分はいずれ死んでしまうけれど、これらの絵を前に、経験した人たちに語って欲しいと考えたのではと思います。「戦争を二度と繰り返さないように」遺書のようなものかと思います。

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2023年7月8日

画像は2014年『坂本正直展』準備の為に所属する学校の美術部学生が、運び出しを手伝ってくださったときのものです。
坂本正直は母校から依頼を受けた時に、意識的に3枚の絵を選びました。
敗戦1年後、宮崎へ戻った時の焼け野が原の宮崎の風景の絵。元宮崎大学農学部のユーカリの樹がコンクリで固められ瀕死の状態になっている絵。作品展後コンクリが外され、生き返った様子の絵。快く手伝ってくださった美術部顧問の先生や職員の方々、学生さんたち、改めてありがとうございました。2012年にも手伝ってくださった美術部学生さんもいます。今は大学も卒業されて、どうされているでしょうか?坂本正直は、戦争を二度と繰り返してはならないこと、体制に屈しないで動くこと、動いた時に変わることを絵を通して伝えようとしました。防風林のように役目を果たしていた沢山の木々が無くなり、今はどうなっているのでしょうか。気になるところです。


宮崎県立宮崎大宮高等学校美術部集合写真


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2023年7月15日

坂本正直は梅雨の湿気の多い時期に、画箋堂から取り寄せたキャンバス2巻くらいを200号位の木枠に一気に何枚も張っていました。
次に100号、70号、最後にはサムホール、そしてそれでも取れなくなるとひも状にして使用していました。94歳の頃も一日ほとんど立ち通しで描き続けていました。
勝哉号はここにおけ
1937年11月 杭州湾に上陸してから泥濘の道と急行軍で弾薬を積んだ輓馬車輌をひくことができなくなった。
勝哉号は、小行李の部隊について歩くのがようやくとなった。
南京の近くで起伏の多い野原であった。
そこに、勝哉号をとうとうおくことになった。
夕陽が野原を斜めに照らしていた。こがね色の空に立ってこちらを見ている勝哉号を振り返りふりかえり別れたわたしは部隊に追いつくために急いだ。

資料提供 : 都城市立美術館
※ 都城市立美術館所蔵の「南京で別れた日」裏に上記の文章が書かれています。
勝哉号 1937年(昭和12年)徴用
飼主 上村清之進 都城市下川原2丁目
坂本正直は、勝哉号を主題にした絵を多く描いています。
都城市立美術館にも「雨の日」「クリークの月」があります。
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
勝哉号はここにおけ

馬は帰ってこない 中国から
馬は帰ってこない 中国から
宮崎県立美術館 所蔵
クリークの月 (戦争)
勝哉号はここにおけ
勝哉号はここにおけ
クリークの月 (戦争)
2008 1,200×1,620 油彩•カンヴァス
命令•勝哉号は歩けん ここにおけ
命令•勝哉号は歩けん ここにおけ
クリークの月 (戦争)
2006 1,300×2,200 油彩•カンヴァス


転戦─馬部隊
転戦─馬部隊
クリークの月 (戦争)
2008 1,300×2,200 油彩•カンヴァス


戦場の写真こちらの画像は、絵を観た友人が同じような光景の写真があるとアルバムを持ってきてくれ提供してくれた画像です。馬も過酷な運命を背負わせられる戦争。敵国と教えられた国の広大で美しい風景。坂本は繰り返し繰り返し、物語のようにわかりやすい絵を描き続けました。


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2023年7月22日

猛暑お見舞い申し上げます。坂本正直は団扇を何本も描いています。
何時頃描いたものかは定かではありません。(個人所蔵)
須田国太郎さんに師事していた時に、須田さんがご自分で描かれた絵の団扇を使っておられて、それをもらい受けたのがきっかけになっているかもしれません。それは戦後、父自身が団扇から外し額装しました。現在は、立命館大学平和ミュージアムに所蔵されています。今年10月頃、リニューアルオープンします。興味のある方は見て頂けましたら幸いです。
立命館大学国際平和ミュージアム所蔵作品

団扇
団扇
団扇


団扇


こんなのも描いています。絵を描くことが何より好きだったのでしょうね。

美人画


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2023年8月3日

坂本正直は目も見えにくくなるなかで、遺さなければと昭和55年頃(1980)の風景を95歳の時に描いています。今、この風景はありません。90歳で描いた「えのき」もありません。船艇から観た空も克明に描いています。
坂本正直記念館の没後から辿る作品画像のページです。
没後から辿る作品紹介
西暦年号の横に坂本正直の年齢を併記しています。

馬、兵隊、輸送船に乗せられて
馬、兵隊、輸送船に乗せられて
第56回宮日総合美術展覧会2004
都城市立美術館 所蔵
クリークの月 (戦争)
2004 1,939×1,303 油彩•カンヴァス
ふるさとの風 昭和五十五年ごろ
ふるさとの風 昭和五十五年ごろ
個人蔵
ふるさとの風景
2009 606×910 油彩•カンヴァス
子どものころからながめていたえのき
子どものころからながめていたえのき
私と樹の物語
2004 1,355×928 油彩•カンヴァス


【1枚目】23という数字は、23連隊のことでしょうと研究者の戴国威さんより教えて頂きました。兵隊と馬が一緒に寝起きしていたことを描いているかと思います。

【2枚目】遠く霧島連山が望めます。昭和55年(1980)頃まで、こんなのどかな風景が広がっていたことに改めて、愕然とします。坂本正直は、インタビューの中で「自然は、災害や戦争や開発によって変わってしまいます」というようなことを語っています。

【3枚目】坂本正直が子どもの頃から眺め、私自身も幼い頃眺めた記憶があります。随分長い間あったように記憶しますが、現在は無くなっています。

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2023年8月12日

2003年、坂本正直、89歳頃。「安井息軒記念館」が建てられる前、何年頃に依頼があったのでしょうか。坂本は明けても暮れても文献を読み、資料を研究していました。ある時は従兄の甥にポーズを取らせてスケッチをしたり(竈の絵)していました。安井息軒をきれいごとに表現しないように苦慮していました。遠景に双石山を入れ子どもの絵日記のような描き方で表現しました。同じころ描いた『火山地帯』表紙絵とは、まるで表現が違います。子どもたちに安井息軒に関心を持ってもらいたい。自分たちの郷里にこんなに立派な人がいたことを伝えたいという気持ちの表れかと考えられます。美しい自然と平和が続くことを祈りを込めて描いているかと思います。
宮崎市安井息軒記念館所蔵作品

明教堂の息軒 (三十歳) のころ
明教堂の息軒 (三十歳) のころ
宮崎市安井息軒記念館 所蔵
安井息軒
2003 2,004×1,350 油彩•カンヴァス
安井仲平 (二十二歳) 大豆を煮る
安井仲平 (二十二歳) 大豆を煮る
宮崎市安井息軒記念館 所蔵
安井息軒
2001 1,000×1,200 油彩•カンヴァス
双石山登山 文政十二年十月十五日
双石山登山 文政十二年十月十五日
宮崎市安井息軒記念館 所蔵
安井息軒
2000 夏 1,940×1,303 油彩•カンヴァス


「火山地帯」 表紙絵
「火山地帯」 表紙絵
「火山地帯」 一◯◯号
0000 0×0 油彩•カンヴァス


桜島との出会い
坂本正直
「火山地帯」一〇〇号の表紙絵に、桜島を描いてほしいと、島比呂志さんから、相談があったのは、九〇号がでたころであったろうか。私は、火山の代表的な山、桜島を表紙絵として描く構想をねることを始めた。
桜島の山容を、鹿児島の街から見たのを描くのではなく、桜島の御岳の山頂、谷間、山襞を描きこむために、九二年の二月、宮崎から列車ででかけ姶良駅で下車、駅近くの踏切をとおり、鹿児島湾の海の方角への道を行った。その時、下校途中の小学生の男子二人が道案内をしてくれた。
桜島がよく見える場所に早く着くため、重富でバスに乗った。桜島がよく見えだしたあたりで、適当なバス停を運転手にたのんだ。おりた所は、竜ヶ水大崎であった。
桜島は、前の時よりもかすんで見えたが、雲間から陽がさすと、谷の強い形の変化、山の重なりぐあいが見えた。画面の構成上で必要なところを確認して写生した。また、カメラで記録をとった。
桜島と私の出会いは、大正三年 (一九一四) 一月。大爆発で火山灰が西風にのり、宮崎にとんできた時、あかんぼうの私の頭に灰をかぶった話を何度か聞いた。小学六年の修学旅行は鹿児島で、桜島と対面している。桜島爆発の絵はがきを買ったのが記念品としてある。
終戦のつぎの年の春、引揚船 (駆逐艦) の甲板から噴煙をうすくあげている桜島を錦江湾でながめた。上陸した鹿児島の街は、焼け野が原となっていた。焼けぬけたビルで、親たちのことを心配しながら、引揚者として数日すごすことになった。
桜島は静かにうすい噴煙をあげていた。

(「火山地帯」一〇〇号 (平成六年一〇月一日) )

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2023年8月18日

坂本正直85歳頃(1999年) 「馬を輸送船にのせる」様子を克明に描いています。今でこそ動物愛護の観点から言われますが、当時は当たり前のように馬たちも翻弄させられました。坂本は、その時のことを目のカメラで捉えた記憶から克明に描いています。
3点目はモダンアートに出品した作品です。最後は敗戦で郷里に帰った時の記憶を描いたものです。生家の向こうには、大淀川とその向こうに自分の先祖が祭られている寺が見えます。この風景は、戦後20年近く変わらずにありました。今は最後の赴任地の八代中学校に所蔵され、学生さんたちに観ていただいています。
没後から辿る作品紹介

馬を輸送船にのせる
馬を輸送船にのせる
クリークの月 (戦争)
1999 1,000×600 油彩•カンヴァス
馬を輸送船にのせる
馬を輸送船にのせる
クリークの月 (戦争)
1999 1,000×600 油彩•カンヴァス
輸送船にのせられて─黄海
輸送船にのせられて─黄海
mモダンアート (裏面記載)
クリークの月 (戦争)
1998-99 2,600×1,620 油彩•カンヴァス


牛の話で父の生存をしる
牛の話で父の生存をしる
クリークの月 (戦争)
1997 910×910 油彩•カンヴァス


抽象の絵をずぅと60年代70年代描いていて、その中で観た人から(子ども?)素朴な質問があったのかもしれませんね。そこで絵本の挿絵のような絵が必要かもしれないと考えたかもしれませんね。絵本も何冊か描いていますが、描く時には描くことに熱中して楽しんで描いていると思います。83歳から85歳くらい、エアコンも無い部屋で、一日中ほとんど立ち通しで描いていたかと思います。

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2023年8月27日

1956年の坂本正直(42歳)の作品の一部です。同じ年の8月5日のことを「どぜう」に描いています。最後のページに”1956.8.28には出せる”と記しています。お世話になった木村太郎さんへ送りました。
戦争から戻って戦争のことは語らず、中学校の美術教師をしながら「二度と子どもたちを戦場へ送らない」など精力的に活動していた坂本正直を心ある方々が暖かく支えて下さったのだと思います。「どぜう」の全編を下記からご覧いただけます。
どぜう

馬と人
馬と人
1956 1,623×1,305 油彩•カンヴァス
馬の群
馬の群
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1956 1,620×1,310 油彩•カンヴァス
スケッチ (人と馬)
スケッチ (人と馬)
1956 351×250 コンテ•紙


晩年の正直に、そっくりです。これを描いたときより半世紀生きています。

「日向夜話草」 挿絵 日向夜話草28 昭和31年(1956年) 9月6日 朝日新聞宮崎版掲載
「日向夜話草」 挿絵
日向夜話草28 昭和31年(1956年) 9月6日 朝日新聞宮崎版掲載


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2023年9月23日

坂本正直は、85歳の時、1999年9月15日~19日「馬と私」開催。
“従軍体験、馬の生涯をみた作品など 勝哉号は都城の徴用馬で行動を共にした。宮崎競馬場のトヨセ号の姿の思いで”
馬と私 坂本正直展 (1999年9月15日~19日) 宮崎県立美術館 県民ギャラリー

会場写真
会場写真
会場写真


会場写真


パンフレット (表面)
パンフレット (裏面)


「競技場の杉」です。現在「JRA宮崎育成牧場」に所蔵されています。この風景は今はありません。檍中学校へ勤務の頃、朝夕、自転車に乗って通勤しておりました。こんなに美しい風景があったことを絵にしたかったのだと思います。何点か朝夕の風景が描かれています。戦後間もないころで、学校には親のない方や色々な家庭状況の子どもさんたちがいました。
JRA宮崎育成牧場所蔵作品

競馬場の杉


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2023年10月7日

坂本正直は、1974年頃から馬の眼を描こうとしています。
「馬の眼」を主人公にして、戦争や不条理をみていたと表現したのでしょうか。現在の世の中を「馬の眼」は、どうみているのでしょうか。
加害性告発と考えられる作品

スケッチ (馬の眼)
スケッチ (馬の眼)
1974 228×327 コンテ•紙
莫愁湖─馬たちはみていた
莫愁湖─馬たちはみていた
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1984 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
戦死した輜重一等兵
戦死した輜重一等兵
宮崎県立美術館 所蔵
1974 1,621×1,303 油彩•カンヴァス


月明りのなかの馬
月明りのなかの馬
1974.3 700×1,172 油彩•カンヴァス


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2023年10月15日

坂本正直は1980年代、精力的に戦争加害告発作品を描いています。
描かずにはおれなかったかと思います。
立命館大学平和ミュージアムに所蔵されています。
リニューアルオープンされました。
貴重な資料が沢山所蔵されています。
是非、足を運んでください。日曜日は休館です。
立命館大学国際平和ミュージアム

戦争•人間が人間を
戦争•人間が人間を
モダンアート 会員 (裏面記載)
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1981-82 1,300×1,620 油彩•カンヴァス
戦争•捕虜をどうする (人間が人間を)
戦争•捕虜をどうする (人間が人間を) (裏面記載)
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1986•1997 1,620×1,300 油彩•カンヴァス
手榴弾─ながめていた─2
手榴弾─ながめていた─2
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1982 970×1,303 油彩•カンヴァス


莫愁湖─馬たちはみていた
莫愁湖─馬たちはみていた
立命館大学国際平和ミュージアム 所蔵
1984 1,300×1,620 油彩•カンヴァス


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2024年1月1日

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
坂本正直は、油絵を描く傍ら頼まれると喜んで紙芝居も描きました。
『三斗米騒動』

一ッ葉の浜塩たき 1947年ごろみた印象
一ッ葉の浜塩たき 1947年ごろみた印象
1975-80 652×910 油彩•カンヴァス
水神さまの杉
水神さまの杉
2005 1,348×648 油彩•カンヴァス
心にのこっている景色
心にのこっている景色
2003 1,940×1,303 油彩•カンヴァス


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2024年1月19日

ふるさとの風 昭和55年ごろ 609×910 2009年 坂本正直95歳頃の作品です。去年は坂本正直の作品を没後から振り返りましたが、今年は、のこっている作品の描かれている順番に巡ってみたいと思います。
1980年(昭和55年)までは、この風景が広がっていたという記録のような絵です。今では、まったく変化していると思います。

ふるさとの風 昭和55年ごろ
ふるさとの風 昭和55年ごろ
2009 606×910 油彩•カンヴァス


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2024年1月19日

坂本正直 台湾でのスケッチと帰国してからの油彩です。
スケッチのメモの字が薄れて読むことができなかったりよくわからなかったりしています。
詳しい方がいらっしゃいましたら是非、教えて頂きたいと思っています。よろしくお願いいたします。

モデルになってくださった方の年齢やお名前がわかったということは、会話しているということかと、日本語を話すことができる方だったかと思います。その頃の状況は、どうだったのでしょうか。

スケッチ(人物)4枚組
スケッチ(人物)4枚組
1944 鉛筆•紙
スケッチ(風景)4枚組
スケッチ(風景)4枚組
1945 160×224 鉛筆•紙
自画像
自画像
1975-80 652×910 油彩•カンヴァス


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2024年1月22日

坂本正直のスケッチにこんなものもあります。
断簡」 侵華日軍南京大虐殺記念館所蔵
流雲」 「戰塵

詳しいことはわかりません。ご存じの方がいらっしゃいましたら是非、お知らせしていただけましたら幸いです。

“1944年(昭和19年)7月14日未明暴風雨も中に昼出発す。”高雄から東海岸に••という記録です。ここまで記載している記録かと。どなたか詳しい方がいらしたら嬉しいですね。 (坂本正直軍歴マップ)

断簡
断簡


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2024年1月31日

坂本正直の「断簡」に思いでとして”昭和十七年七月二十九日” “絵を許されし日を思い出し”とあることから知ることができます。
ペンネームを「麦村」とするか「麦人」とするか書いています。
台湾でのことも克明に描いています。興味のある方は、こちらを開いていただけましたら幸いです。
断簡2

断簡2
断簡2
断簡2
断簡2


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2024年2月5日

坂本正直 1946年(昭和21年)の自画像です。その同じころに書いた『墨と筆』です。いずれも侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵です。P64に”父はこの印をつげの木で作ってくれた.二十年三月六日正信長男正道”と記しています。またp71には”この蔵書印は父が何つ頃作ったものか知らない.(中略)自分と違い品あるものを持った印のように思われる。”p141に”絵を描く男は馬鹿である.”と書いています。 「墨と筆」 こちらから全文を読んでいただくことができます。142ページもありますが、興味のある方は読んでください。

坂本正直は、メッセージを祈りのように書いていたのでしょうか。

自画像
自画像
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1946 410×319 油彩•カンヴァス
墨と筆
墨と筆


墨と筆
墨と筆


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2024年2月10日

坂本正直 1951年(37歳)3枚が一緒に額装されています。
2014年、当時宮崎県立美術館の学芸員3名と私の友人、知人、親戚、総勢10名くらいで、二日がかりくらいで300点に上る大作、小作品撮影記録したときの1作品です。前日は晴天の中、野外で。二日目は大雨の中、美術専用車の中で撮影と記録が続けられました。
2枚目のスケッチは、森芳雄さん。どのような状況でスケッチしたのかわかりませんが、坂本正直も同じように1955年に独立美術を脱退しています。
森芳雄 | Wikipedia
次の油彩「馬」は、出展した作品かと考えられます。
1952年頃に新聞連載小説のカットを描いていたようです。
「日向滑稽通信」 挿絵

スケッチ (波紋 馬と人)
スケッチ (波紋 馬と人)
※3枚入っている
1951 357×260 水彩•紙
スケッチ (森芳雄先生)
スケッチ (森芳雄先生)
1954.夏 415×300 鉛筆•紙
馬

1953 1,300×953 油彩•カンヴァス


日向滑稽通信1
「日向滑稽通信」 挿絵
1952


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2024年2月17日


坂本正直 (1947年) 昭和22年春と「旅」には何度も書かれています。
「建設」こちらは坂本正直が写した写真をスキャンしたものです。
いずれもどのような背景で描かれたものか詳しいことはわかりません。

旅

1947
旅

1947
建設
建設
1947 油彩•カンヴァス


現代では、パソコンでフォントを変えていますが、坂本は「勘亭流」等々内容によって文字を変えることを楽しんで書いたり描いたりしていたようです。2回の戦争から無事に帰国できた平和を楽しんでいるかのように感じられます。

旅


坂本正直は、1980年にこの絵を描いています。
忘却の末にすべてが繰り返されることを懸念していたのでしょうか。

引揚げ帰国上陸 鹿児島1946年3月5日
引揚げ帰国上陸 鹿児島1946年3月5日
1980 1,300×1,120 油彩•カンヴァス


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2024年2月24日

坂本正直 年代順にと言いながらまたまた逆行します。
これらの絵がどのような状況で描かれたのかわかりません。
昭和11年12年頃です。後年製本したのかと考えられます。
台湾で出会った木村太郎さんが所蔵下さり、後ご長男の木村一郎さんが大切に保存して下さったればこそ今に至ります。
流雲」 「戦塵
よろしければ上記より全文をご覧いただけます。

流雲
流雲 p5
昭和十二年
流雲
流雲 p9
昭和十二年十一月十三日
戦塵
戦塵 p15
昭和18年夏


流雲
流雲 p13
昭和12年5月


昭和十二年十一月十三日 軍歴を観ると 南京(江蘇省)
説明
昭和12年11月5日~15日 湖東会戦に参加 11月18日~12月7日 南京攻撃のための集中及び追撃戦闘に参加 とあります。背景の山は何という山でしょうか。坂本正直は、自分の眼でカメラのシャッターを押すように記録、記憶したものを後年、強く印象にのこったこととして描いたかと思われます。現在のようにリアルタイムで戦場の様子を記録できる時代ではありません。中国の美術や歴史、建物、風景にも興味があって、それらが破壊される。聖戦と教えられてきたけれど、違う。侵略戦争だと思った瞬間ではないかと想像します。
坂本正直軍歴マップ

流雲


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2024年3月3日

坂本正直 1955年の自画像です。学校で教え子さんたちにも自画像を描かせていたかと思います。面白い表場をしています。学校の記念写真でも横を向いたり、教え子さんたちを写す時も「横を向いて」等々、言っていたようです。朝の挨拶も「ボンジュル」とか言ってボンジュル先生と呼ばれていたようです。
当時の記念撮影 アルバム

自画像デッサン
自画像デッサン
1955.7.18 360×258 鉛筆•紙
自画像デッサン
自画像デッサン
1955 356×257 鉛筆•紙
白い馬
白い馬
馬と私
国富町立八代中学校 所蔵
1954-55 900×694 油彩•カンヴァス


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2024年3月9日

1956年 坂本正直42歳の作品です。山口薫に師事した頃で、戦争のことは一言も語らず、勤務先の学校と絵を描くこと。
二度と子どもたちを戦場へ送らないことへの運動をしていた頃かと思われます。
1946年秋、木村太郎さんが訪ねてくださったお礼に「ふるさとを訪ねて」を描いています。100年後にどうなるかと予言めいたことを書いています。

馬と人
馬と人
馬と私
1956 1,623×1,305 油彩•カンヴァス
馬の群
馬の群
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
1956 1,620×1,310 油彩•カンヴァス
夏の森
夏の森
未分類
1956 1,169×741 油彩•カンヴァス


鹿児島の錦江湾から春に上陸して、日豊線で宮崎へ。その年の秋に台湾でご一緒した木村一郎さんが、わざわざ東京から訪ねてくださったのですね。今のように飛行機がある時代ではありません。夜行列車に乗って長い時間をかけて来て下さって、そのお礼に父が描いたものです。それをご長男の一郎さんが大切に保管してくださったからこそ今があります。多分わかりにくいように黙するように抽象的に描いているのかもしれませんね。

ふるさとを訪ねて
ふるさとを訪ねて p21
1946 秋


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2024年3月16日

坂本正直1956年~57年頃の作品です。油彩は1点も見当たりません。
学校の子どもたちのことに没頭していたのでしょうか。
画像4枚目のスケッチには、わざわざ(孤独)と記しています。
私は、4歳、5歳の頃でわずかな記憶しかありませんが、引っ越しとかあったからでしょうか。

スケッチ (人と馬)
スケッチ (人と馬)
1956 351×250 コンテ•紙
自画像デッサン
自画像デッサン
1957.5.2 355×250 マジック•紙
◯◯◯
◯◯◯
1957.5.15 385×270 マジック•紙


スケッチ (孤独)
スケッチ (孤独)
1957.6.3 (?) 0 376×269 コンテ•紙


「日向夜話草」 挿絵 日向夜話草28 昭和31年(1956年) 9月6日 朝日新聞宮崎版掲載
「日向夜話草」 挿絵
日向夜話草28 昭和31年(1956年) 9月6日 朝日新聞宮崎版掲載


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2024年3月23日

坂本正直 1957年のコンテ 1959年の油彩 です。
何故だか1958年は、見当たりません。
山口薫さんに傾倒していっているのが見て取れます。
BIOGRAPHY

スケッチ (馬 (リズム) 力強い馬群)
スケッチ (馬 (リズム) 力強い馬群)
1957.8.1 (2?) 8 383×271 ペン•コンテ•紙
スケッチ (馬の群)
スケッチ (馬の群)
1957.11.11 245×3500 コンテ•紙
馬 (B)
馬 (B)
1959 1,628×1,302 油彩•カンヴァス


(不明)
(不明)
1959 530×414 油彩•カンヴァス


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2024年4月5日

坂本正直作品 1959年 60年です。
油彩は、宮崎太陽銀行本店 正面に展示されています。

馬 母子
馬 母子
宮崎太陽銀行本店 所蔵
1959 1,460×1,770 油彩•カンヴァス
誕生•母子
虹 馬の群れ
虹 馬の群れ
宮崎太陽銀行本店 所蔵
1959 1,500×1,890 油彩•カンヴァス


スケッチ(白い馬)
スケッチ (白い馬)
1960 356×250 コンテ•紙


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