戦争の時代のなかで

(「私のなかの風景」木村麦より)

美校の願書をもらって準備をしていたら、召集でした。
招集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年(昭和12年)の7月でした。
父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない古里の風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。
輜重兵として中国を転戦し、’40年に除隊になりました。
私は再び京都に出て、今度は絵の具屋の画箋堂に勤めながら絵を描くことになります。やがてアメリカとの戦争が始まり、‘42年から二度目の応召です。
画箋堂では、上村松園さんなどいろいろな絵かきさんへの注文の画材を届ける仕事が多かったですね。そして、また須田先生との出会いがあるわけです。  (須田国太郎)
研究所に作品を持って行ったり、先生が画箋堂にみえたときに見てもらったりしました。先生からオーケーをもらって、独立展に初入選したのが’41年(昭和16年)3月です。
兵隊と馬を描いた「出発準備」、私の戦争シリーズの原点とも言える50号の作品です。中学時代に習った小池鐡太郎先生に「初めて入選しました」と宮中に送り、校長先生が校長室に飾って下さった。ところがこの作品は、宮中と一緒に焼夷弾で焼けてしまいました。
私にとって、須田先生に出会い指導を受けたのが、何と言っても大きいのです。先生の絵は、当時の描き方、構成も、肌もやり方も違っていて、いわゆる須田調といわれる独自な作品を描いていました。私の体質に合っていたことも確かです。おしゃれな絵は似合わないのです。
二回目の戦地は台湾でした。在郷軍人のとき、運転免許を持っていることを書いたため自動車部隊でした。しかし台湾では米国の攻勢のために、自動車は使えず、また馬と一緒に動きました。最後の最後まで馬でした。子供の頃も家に馬がいました。中学一年ぐらいまででしたか。その後は牛でしたが、馬と私は切っても切れない縁があるのです。