坂本正直長女 所薫子
二○一六年五月十一日から十五日まで、『火山地帯』の生まれた星塚敬愛園のある鹿屋市の「リナシティかのや」で「『火山地帯』ー島比呂志と坂本正直」展を開催した。坂本正直は私の父である。宮崎で生まれ二○一一年三月に九十七歳で亡くなった。京都で須田国太郎に師事し絵を学んでいたが中国、台湾と二度の召集を受け敗戦後、中学校の美術教師となった。
父と島比呂志さんとの接点は、亡くなった今となっては定かでないが、『火山地帯目録』を辿って見ると三十号(一九七七年 復刊号)からカットを描いている。七十八号(一九八九年)からは表紙絵も描くようになり一五四号(二○○八年)まで続く。カットは、その後も長く続いた。
父が『火山地帯』にカットを描くようになってから私にも父から同人誌が送られてくるようになった。島比呂志さんの父のカットの使い方にその頃から興味はあったが、日常の生活に追われそれ以上追跡することは無かった。掲載された小説の朗読をラジオで聴いたのもその頃であっただろうか。
父、坂本正直は亡くなる二年前、九十五歳まで元気で、一日のほとんどを立ち通しで背丈よりも腕を上げて油絵を描き続けていた。母が一九九五年に亡くなってからは、ずっと一人で生活していた。亡くなってから調べてみると、膨大な作品を遺していた。
二○一四年、宮崎で父の『生誕百年没後三年』の作品展を開催した折、父の画業の中で『火山地帯』を抜くことはできないと思った。そして、島比呂志さんから編集発行人を引き継いでいた立石富男さんに連絡を取り、原画が遺されていると知って鹿屋へ伺った。その時、沢山のカットもお預かりした。その裏に書かれた島比呂志さんの彫り込まれたような字を見た時に「別に取り上げなければ」と思ったのである。
二○一五年一月から三月にかけて、まず自宅ギャラリーで開催。資料集めを手掛け、鹿児島県での開催実現に向けて会場を探す中で『リナシティかのや』が浮上した。二回目の鹿屋市訪問の中で立石さんには『星塚敬愛園』も案内していただいた。
実家を片付ける中で島比呂志さんのお葉書やお手紙を見つけた。父のカットを褒めながらしっかりと希望を書かれ、それに合わせて父のサイズや縦横をメモしている貴重な資料だ。父は、同人誌が送られてくるたびにワクワクしながら開いたことだろう。島比呂志さんの小説やエッセイとは別に「らい予防法」廃止へ向けての激しい闘いにエールを送るように、表紙絵やカットに熱がこもっていったことだろう。
「リナシティかのや」展示会場入り口には、桜島を背景に土蔵だけを残し焼け野が原の「引き上げ上陸(一九四六年三月五日)桜島」。入ってすぐ左側には父が敗戦後、錦江湾から上陸し、数日滞在した鹿児島の記録を油彩にしたもの「引き揚げ帰国 雨」の鹿児島の風景が続く。向かい側には『火山地帯』表紙絵原画を並べた。「高千穂峰」「朝の桜島」「韓国岳えびの高原」「高千穂峰お鉢」。鹿児島県の風景の奥からは父の代表作とされる『クリークの月』シリーズを並べた。高さ3メートルぎりぎりの「輸送船の中の空」中央のコーナーには、「捕虜をどうする」「傷病兵」その奥には、資料コーナーとして『火山地帯』に父が描いたカット300枚、カットの裏には、島比呂志さんの直筆で小説の題名など書かれてあるものをクリアファイルに納めたもの。島比呂志さんの著作、新聞記事等を机に並べた。その横ではドキュメント映像『もういいかい』を流した。その向かいの壁には、写真家芥川仁さんの協力で、島比呂志さんの記録写真を展示した。裏側の壁には、「木と私」シリーズ。故郷の自然を描いたもの。向かいには、父の中心的テーマ、中国大陸へ置き去りにするしかできなかった馬「勝也号は置いてけ」捕虜の手が手榴弾で飛ばされるのを「飯を食いつつながめていた」二百号を掛け、出口に向かっては、『求法の旅』「玄奘三蔵法師」小学校から借りてきた絵を並べた。
毎朝まず初めに島比呂志さんの詩『海の沙』を合唱曲(作曲・宮崎裕之)にしたものを流し、気持ちを落ち着かせ、次に島比呂志さんが星塚敬愛園を出られる時に語られた声を録音したものを何度も聴いた。これらは立石さんからいただいた。後藤園長が星塚敬愛園の看護師さんたちと一緒に来られた時、「あっ、これ私です。私」と芥川さんの写真を見て言った。島さんの血圧を測っている後ろ姿。また看護師さんが「この子を妊娠していて」と、その娘さんと一緒に懐かしそうに見入っていた。島さんが自転車に乗ってご自宅の生垣を曲がられようとしている写真。小説とだぶる。来客がない時には、島さんの著作をじっくり再読した。耳からは声が、目からは島さんの文章が、乱読した時には見えてこなかった諸々がしみ込んで行く気がした。
映像『もういいかい』は島比呂志さん著作『奇妙な国』の朗読で始まる。会期中、何度も何度も繰り返し流した。展示期間中、「ハンセン病市民学会」が鹿屋市文化会館であったので、全国から沢山の方がお越し下さった。父の作品をゆっくりご覧下さり、映像もご覧いただいた。父、坂本正直の作品がこれだけ沢山県外に出て行ったのは、これが初めてだ。
全くの偶然である。背中を押されるままに動き、歩んできたが実は、島比呂志さんに動かされ、父に動かされてきたのかも知れない。これからも全く偶然の出会いのような必然に動かされ歩むことだろう。島さんの「どうしてもそうしなければならなかった」という声が今も耳元で聞こえる気がする。
『火山地帯』2016年12月 188号