坂本正直長女 所薫子

二○一六年四月二十二日、坂本正直(父、故人)の家で、来年宮崎県立美術館で開催予定作品展の一回目の集まりを開きました。メンバーは、二○一二年『ー記録と記憶と思い出ー』、二○一四年『坂本正直展 生誕一○○年 没後三年』で、出会った人たちです。庭は、スオウがちょうど咲いていました。馬酔木、レンギョウ、山吹の葉が芽吹き、その下では蓮華草やキンポーゲが可愛く揺れていました。
子どもの頃私は、父の絵を描いている姿をあまり見たことがありませんでした。父が亡くなってから改めて映像に残っているものを観ると何かにとりつかれているように、たたきつけているように描いています。新しい絵筆を何本も持っていたはずなのに、どうしてボロボロに摩滅しているのか、パレットナイフもすり減っていたり、折れて針金で直していたり、それを観てわかりました。画布に誰にも言えない苦悩をたたきつけ、塗りこんでいたのかと、今になれば思います。仕上がった作品は、意識的に構成された作品のように見えますが、制作の段階では、無意識に近い、我のままのタッチになっているのではないかと思います。
私が幼稚園の頃(一九五六年頃)の絵は、ほとんど中傷で、線で馬の後ろ姿を描いていました。子ども心にもわからないけれど好きな絵でした。襖一枚ぐらいの大きさの画布に毎日、毎朝毎晩、中学校の仕事場へ行く前、帰ってから、アトリエに籠って描いていました。どれも同じようなタッチで、灰色だったり、赤だったりしました。だいたい十年くらい同じような作風が続きました。
その次には、私は「黒の時代」と名付けていますが、真っ黒な作風に変わっていきました。真っ黒な貨物列車、「ワム」等、文字で貨物列車の内容を表す文字と「2385」等数字が描かれていました。真っ暗な貨物列車の中、わずかな光で、馬の足が見えます。悲しく沈んだ目の馬の顔が並んでいます。描いた絵の上からまた描き、また塗りつぶして、画布の裏にも描いて、残っていない作品もたくさんあるかと思います。
その頃の中学校の印刷物は、ガリ版印刷で、毎夜遅くまでカリカリとゴッホの絵を描いたり、ピカソの絵を描いたりして、試験問題を描いていました。今のようにコピーやパソコンのある時代ではありません。美術ということで、試験用紙全体でもレイアウトやデザインを感じられるように、明朝体やゴシック体の文字を駆使したり、「観る」ことを重視して、学校の前の看板やバス停のデザインを問う問題などを作成していました。
「黒の時代」が長く続きました。来る日も、来る日も、暗く黒い画面でした。その頃私は、ただ黒く塗っていると思っていましたが、後に観るテレビ記録映像「いっちゃがワイド」の中で、それは、たたきつけるように、狂人のように描いていたことを知りました。
久留米の画廊で開かれた個展へ行くと、四方黒い壁に囲まれているような黒い貨車ばかり描かれた絵が並べられていました。
「莫愁の湖ー馬たちは見ていた」(1983年)「莫愁湖ー馬たちは見ていた」(1984年)「馬が見ていた」(1990〜91年)「戦争ー馬も見ていた」(2002年)父、坂本正直は、何を言おうとしていたのでしょうか。
真っ暗な中に少しずつ色が入るようになり、青空が描かれるようになります。中国やインドの旅行を重ね、スケッチし、並行して、「求法の旅」三蔵法師の旅行きを描くようになります。正に光を求めた旅、絵だったと思います。敦煌や行く先々で、その地の砂を空いたフィルムケースに入れ、又はスケッチした絵に塗り付け、油絵の具に混ぜて、画布に塗り込めていきました。
中国の黄土と化した戦友、馬たちをその土とともに塗りこめているようでもあります。宮崎県立美術館所蔵の大作「敗戦、終戦ー1945年」(1979ー80)(縦162・4X354・2)馬たちが消えて黄土になっていくようです。下級兵士たちに与えられる勲章は、むなしく破りさられています。
二○一四年の作品展中、土呂久公害紙芝居展示で知り合った故佐藤鶴江さんの孫にあたる方の紹介で、宮崎市橘通り東の若草通文化ストリート内で、土砂降りの雨の中、ザーザーと雨漏りする会場で、作品展を開催していた作品に雷にあたったような衝撃を受けて、その若い作家さん二人出会いました。父の初期作品、抽象の作品、「病馬」「老馬」のタッチや作品テーマに近いものを感じて、「四年後に傷んだ初期作品を展示したいと思ってるんですが、その作品の空間に作品を展示していただけないでしょうか」とお願いしました。快諾してもらいました。それから三年たって、再度お願いしたところ、若い二人にとって四年という長い時間を待ってくれ、協力してくれることになりました。
「嬰孩性」子どもは、一歳から六歳くらいまで我がままですが、七歳くらいから学校に行き、教育を受け、高度教育を受ければ受けるほど、我が無くなってしまい、つまらなくなるけれども、そんな中でも我を失わないで成長する人もいて、生まれてから死ぬまで、本能で描いているような芸術家もいます。そんなワクワクドキドキするような作品展にできればと願っています。
今回の作品展もまた、波乱万丈かも知れません。二○一二年の目録の後ろのページに「どげんやったね やってみらんね」と記しましたが、それから六年後の二○一八年、宮崎で出会った色々な人に助けられて開催したいと考えています。

『火山地帯』2017年6月 190号




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