本多 寿

それでも馬小屋の壁にはりついた自分の影を
いつまでも凝視している     嵯峨信之

その男の影から一頭の馬が現われる
「勝哉号」と名づけられ、軍馬に仕立てられた農耕馬だ
南京をめざす泥濘の道で脚を傷めたために棄てられた馬

軍用列車に詰め込まれ、海を渡って一ヶ月
輜重兵として戦争に駆り出された男と一緒に寝起きし
生きて還った男の中で生きつづけている死んだ馬

その馬は男の半身だったから
「勝哉号」が棄てられたとき
男もまた大日本帝国から半身を棄てられたのだ

以来、喉の渇きの止まない男は馬小屋の壁の前に立ちつづけ
自分の影を凝視しながら、いまだに馬小屋に帰還できない

男の魂は馬のために水を探しに行き
自らの渇きを鎮めるまえに馬に飲ませる
それから弾薬を背にした馬の鼻づらを引いて歩く
来る日も、来る日も馬と一緒に歩く

(いまも、歩いている)

南京 蕪湖 安慶 漢口 大治 九江 徳安 長沙
三年半ものあいだ転々とした中国で男が見たものは
敵味方を問わぬ、おびただしい人間の死体だった
殺さなければ殺される極限状況で男も人を殺した
平気で眠った、何事もなかったように飯盒の飯を食った

戦後、男は郷里に帰還し馬を描く画家になった
異常をきたしてしまった自らの心裏のおぞましさ
慙愧、後悔、反省を込めて死ぬまで筆を動かす
カンバスに塗りこめていっても終わらないもののために
憑かれたように馬を描いた

男は百姓のときも輜重兵のときも
そして、画家となっても馬とともに生きている
死んでも死なない馬が男を死なせないのだ

とっくに九十歳を過ぎた男の
おぼつかない足どりに歩調を合わせる蹄の音がある
すでに二人をつなぐ手綱も失われて無いが
馬は男から、男は馬から離れられないのだ

彼らが還るべきところは、戦に駆り出されるまえの
小蝿と虻の低い羽音が籠もった
あの、藁の湿った臭いの混じった馬小屋だけなのに

二〇〇八年九月五日

参考文献 木村 麦・聞き書き『坂本正直さんが語る 私のなかの風景』
※ 輜重兵(しちようへい)=弾薬や食料を運ぶ兵隊




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