坂本正直長女 所薫子

父が亡くなる2年前頃から半月ずつ父と暮らすようになって、それまではほとんど話すこともなかったが、絵の話をすると、父は生き返ったように生き生きと多弁になった。たまたま生家の地域の方々が父の作品展をしたいと相談されたことや、私も以前から、私が住む神戸の近くのギャラリー主から父の作品展をしないかと誘われていたこともあって、作品展の準備をするということで父に色々、絵の話をもちかけた。生前には間に合わなかったが、2011年5月、父の死後1か月後に1回目の作品展を神戸のギャラリーで開催した。幾つかの作品展を開催しながら、いつかきちんと全作品の表と裏側を記録しなければと考えるようになった。
今年、2017年10月、友人、知人、親戚、宮崎県立美術館学芸員の方々の協力により、プロのカメラマンにお願いして、父の妹宅にある小屋と氏神様のある畑の小屋に遺されていた作品を撮影記録した。キャンバス100号や80号に油絵の具で描かれたものが、ゆうに200点くらいあった。撮影は早朝から夕方までの2日にわたり、2日目の午後からは生憎の雨が降り出した。リトグラフやスケッチなど額装した小作品約100点は、美術館の大きなトラック内で行った。次から次と出てくる終わりの見えない作業、表を3枚、裏を3枚ずつの撮影と縦横のサイズ測り、題名の記録など、小雨の中、皆に疲れがみえてきた。100号の絵を運び出し、サイズを測り、撮影し、それをまた男手二人で裏返し、撮影し、制作年月日や題名を記録していく地味な仕事がコツコツと続けられていく横で、私はカビなどの汚れをふき取る作業を続けた。畳2枚分くらいはある大きな絵を小屋から運び出し、また運び入れる。それでも皆、音を上げる者もなく最後まで撮影した。一見無駄なようにも見える作業だが、膨大な数の作品を描いていたことを再確認することができた。片付けが済んでから皆で丸くなり万歳三唱を唱和した。

記録撮影の中で『戦争ー殺すのをながめていた』という油彩の絵を見つけた。100号2枚を横つなぎにしたものだ。裏を見ると制作年が書かれていて、1991ー92とあり、更に「・92 描き直す」と記されていた。
全体に青色で描かれた右側画面いっぱいには、引きちぎられ肉片の見える醜く強張った手が荒々しく描かれている。右下側には、数個の飯盒が転がっている。左側画面には、下の方に数頭の馬の顔だけがぼうっと浮かんでいる。
同じテーマで描かれた『手りゅう弾ーながめていた』には、「1980−1981−1989・6・18(手を直す)」と記されている。全体を黄土色に、下の方には飯盒がいくつも見える。上には同じように手が大きく描かれている。
1991年にNHKテレビ放送「いっちゃがワイド」のインタビューの中で、この絵について話している記録がある。
「戦争へ行った初めの頃は、食事ものどを通らなかったけれど、戦地が長くなるにつれて平気になっていったんです。ある日、捕虜の手が手りゅう弾で飛ばされて、私たちが食べているすぐ近くに飛んできました。でもみんな食べ続けていたのです。平気の平左だったのです」
と話していた。そして「そのときのことを描きました」父はきっぱりと言っていた。
このテーマを何枚も描いていることは知っていたが、制作年と題名の変更のことまでは、理解していなかった。
他に『飯を食いつつながめていた』というのもある。いずれも引きちぎられ飛んでいる手と飯盒が描かれている。いったい全部で何枚あるのか、高鍋町美術館にも所蔵されている。今は、もう処分された実家にも描きかけの未完成の同じテーマの絵があった。それらの題名に何と書かれてあったのか、今となってはもうわからない。ほとんど同じような構図で、同じように手が飛んでいる絵を何故ここまで執拗に描かなければならなかったのか、描かずにはおれなかったのか、1980年頃には、『手りゅう弾ーながめていた』が、『飯を食いつつながめていた』になり、92年には『戦争ー殺すのをながめていた』と変化している。
生前からこれらの絵については、ずっと気になっていたが、訊くことはできなかった。父が亡くなって6年以上もたって、今となってはわからないが、戦争は、普通の人間の心までも変えてしまう恐ろしいものだということを伝えたかったのだろうか。自分の体験を通して、これだけは伝えておかなければならないと、歳を重ねるごとに強く思うようになったのだろうか。

父は、京都で須田国太郎に師事しながら絵を学んでいた時に、召集令状が郷里の宮崎に届き、都城から出征したと聞いている。今は、焼夷弾で焼失して無いが『出発準備』という油彩画があり、後年それをリトグラフ(版画)にした作品がある。
告発ともとれる、自分自身もまた加害者であったという明確な表現と、変化していったその過程を今回の記録撮影を通して発見できたのである。まるで遺跡の発掘を続けるような地味な作業の繰り返しの後に、何か意外な宝物を発見したような喜びである。
微力ゆえに美術館も記念館もつくることはできないが、ネット上の記念館を立ち上げたいと思っている。そして、坂本正直が生涯を通して、伝えたかったことを次世代へ伝えることができれば、と考えている。

『火山地帯』2018年1月 192号




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