玄奘三藏法師求法の旅 高昌城の使者

 1995-96 652×1,164 油彩・カンヴァス

高昌城の使者二人
火焰山は後方で
ムルトウク河が流れでているあたり
アスタナ-古墳の近く(裏面記載)

坂本先生のことば
「坂本正直さんが語る 私のなかの風景-『玄奘三蔵法師 求法の旅』展にあたって」から抜粋

■「玄奘三蔵法師 求法の旅」は私の新しいシリーズということです。(中略)/1300年前の三蔵法師の旅を旅しているわけです。昔、三蔵法師が見られた星や月をその場で見ている。時代を越えてつながっていると実感しました。火焔山など三蔵法師が眺めたときと同じでしょう。高昌城を出発された馬上の三蔵法師が木が一本も生えていない火焔山を眺められた。制作中に、そのときのお月さまの具合いはどうかとか、夜中に起きて確認したりですね、そんなこともありました。/それに今回、敦煌あたりは敦煌の砂を、火焔山には火焔山の砂を油絵の具に混ぜています。

■今の宮崎市生目の跡江が私の生まれ育った古里です。(中略)私は農村の恵まれた自然のなかで成長することができました。そして田園の風景が私の心にしみついています。どこに行っても、この古里の田園風景を懐かしく思い出しました。
■美校の願書をもらって準備をしていたら、招集でした。招集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年、昭和12年の7月でした。父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない古里の風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。

■私たち輜重兵が歩兵の後から上陸し出発した日はぬかり道で、一日に一キロほどしか前進できないような状態でした。どこに行くか知らされていませんでしたが、一路、南京を目指したのです。約一か月、すべて歩いたわけです。(中略)/そこで馬が参ってしまいました。都城でわたった馬です。痩せた農馬でかみつくし、くせのある馬でした。勝哉号です。(中略)もう歩けないのです。南京に着く前の夕方、野っ原の別れ。呆然と立っていました。
■漢口の戦闘も終わって山岳戦に入る前のことです。道路上に死体が2、3体あって、その上をトラックがダーッと通る。(中略)周りはほこりだらけでした。私たちはトラックが通るのをじっと待っているわけですが、その死体が道路からはげて動くのです。言いようのない光景でした。そんなこともありました。
■「輸送船にのせられて」「貨車にのせられて」の絵は、後から描き出した戦争体験の記録とは違うわけです。最初の頃は受け身的でしたが、「クリークの月」「人間が人間を」になると、自分が戦場でやっていたことに対する反省とか、心理状態が異常になったこと、を描いています。そういう状態になってしまう人間、そういう場に行ったら自然とマヒしてしまう人間をですね。/飯盒を描いていますが、飯を食器であるのと同時に、あれは戦友の死を表しているのです。骨を焼いて飯盒に入れるものと決まっていたのです。

■私にとって、大きく言えば、戦争シリーズをいかに、どういうふうに描くか。角度を変えたり、表現方法も時代とともに変わっていくということはありますが、死ぬまで繰り返し同じテーマなのです。/今、戦争シリーズの第二部の個展を考えています。筆を動かさねば、カンバスに塗り込めねば、解決できないことですから。三蔵法師の個展が済んでからじわじわかかろうと思っています。

(1995年秋から96年春にかけて坂本先生の自宅で話をうかがいました.聞き手 木村麦)




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