本多 寿
それでも馬小屋の壁にはりついた自分の影を
いつまでも凝視している 嵯峨信之
その男の影から一頭の馬が現われる
「勝哉号」と名づけられ、軍馬に仕立てられた農耕馬だ
南京をめざす泥濘の道で脚を傷めたために棄てられた馬
軍用列車に詰め込まれ、海を渡って一ヶ月
輜重兵として戦争に駆り出された男と一緒に寝起きし
生きて還った男の中で生きつづけている死んだ馬
その馬は男の半身だったから
「勝哉号」が棄てられたとき
男もまた大日本帝国から半身を棄てられたのだ
以来、喉の渇きの止まない男は馬小屋の壁の前に立ちつづけ
自分の影を凝視しながら、いまだに馬小屋に帰還できない
男の魂は馬のために水を探しに行き
自らの渇きを鎮めるまえに馬に飲ませる
それから弾薬を背にした馬の鼻づらを引いて歩く
来る日も、来る日も馬と一緒に歩く
(いまも、歩いている)
*
南京 蕪湖 安慶 漢口 大治 九江 徳安 長沙
三年半ものあいだ転々とした中国で男が見たものは
敵味方を問わぬ、おびただしい人間の死体だった
殺さなければ殺される極限状況で男も人を殺した
平気で眠った、何事もなかったように飯盒の飯を食った
戦後、男は郷里に帰還し馬を描く画家になった
異常をきたしてしまった自らの心裏のおぞましさ
慙愧、後悔、反省を込めて死ぬまで筆を動かす
カンバスに塗りこめていっても終わらないもののために
憑かれたように馬を描いた
*
男は百姓のときも輜重兵のときも
そして、画家となっても馬とともに生きている
死んでも死なない馬が男を死なせないのだ
とっくに九十歳を過ぎた男の
おぼつかない足どりに歩調を合わせる蹄の音がある
すでに二人をつなぐ手綱も失われて無いが
馬は男から、男は馬から離れられないのだ
彼らが還るべきところは、戦に駆り出されるまえの
小蝿と虻の低い羽音が籠もった
あの、藁の湿った臭いの混じった馬小屋だけなのに
二〇〇八年九月五日
参考文献 木村 麦・聞き書き『坂本正直さんが語る 私のなかの風景』
※ 輜重兵(しちようへい)=弾薬や食料を運ぶ兵隊