「八月十五日の空・敗戦」

坂本正直長女 所薫子

今年、七月二五日から三十日まである『第五十回兵庫県平和美術展』のお誘いを去年受け、今年五月ころ実家より父の作品二点を選び、送ってもらいました。

一点は「八月十五日の空・敗戦」(制作一九八七年)縦が92センチ、横が73センチの油彩画で、青空をバックに軍靴が一足転がり、一番階級の低い勲章が破り捨てられています。もう一点は「敗戦ー馬」(制作一九七九年)縦が66センチ、横が50センチの油彩画です。悲しい眼をした馬の顔が一頭に、こちらも破り捨てられた勲章が描かれています。作品そのものは何度も見て知っていたのですが、送られて来て初めてゆっくり裏を見ました。
一枚目のキャンバス裏には父の直筆で先の題名が書かれ、はがき大の紙に活字横文字で「軍靴も勲章も不要になった敗戦の日」とあり、額の代わりに29kgと青地で印字された箱の板がわざわざ使われています。もう一点には、「愛馬に勲章を」とありました。

気づいたらちょうどその日にイギリスでのテロのニュースが報じられました。次の日の早朝、八月十五日前後で宮崎日日新聞本社のある宮日会館で父の作品展を開催しようと思い立ちました。問い合わせると空いていました。早速仮予約を取りました。絵を所蔵する従兄に問い合わせると八月七日は初盆で無理だけど八日は大丈夫ということでした。次に宮崎カーフェリーの予約状況をパソコンで開くと一席だけ空いていて予約を取りました。

会場の広さや空間を考えて、沢山ある作品の中でどれを選ぶか、中心テーマは何にするか、準備が始まりました。父が九一歳の時NHK「いっちゃがワイド」でスタジオインタビューに答えている言葉を参考にすることにしました。
「手榴弾ーながめていた」(制作一九八○・八九年)縦130横190油彩の作品を前に「中国の兵隊が殺されるのを最初に見た時には飯も食えんかったのに一年経ち、二年経ち、三年経つと無神経になって、平気で殺されるのを飯を食いながら見ているような精神状態になっていたのです。この絵は、皆と一緒に土手に腰かけて飯を食っていたところが、殺される捕虜の手が飛んできた。それを描いている。
私の場合、その時、自分はこうこうであったという反省、鎮魂ですね。それで救えるわけです。自分が。」
アトリエで、と言っても母が亡くなってからというもの台所のひと角の壁に立てかけ、足の踏み場も、座る場も無い、六畳の和室入口に絵の右端は隠れるような狭い場所で、たたきつけるように、狂ったように、黒や青や紫を塗りつけ、その現場にカメラが入り、描きながら答えています。
「クリークの月」制作年不明、縦112横194「殺さないでもよかったんじゃないかという反省があるんです。南京の街の中を流れるクリークといわれる運河に月が明るく照らし出しています。一人で見張りをしていた時に急に物音がして、中国人が現れ、驚いて思わず引き金を引いてしまいました。その人を殺さずに、その人がずっと向こうへ行くのを見過ごしてやってもよかったんじゃないかという反省があるのです。」
「捕虜をどうする」(制作一九八八年)縦162横112油彩「トラックに載せられ運ばれる中国人捕虜たち。背中で後ろ手に針金で縛られている。普通の状態ではない。」ゴツゴツした手や足だけを画面いっぱいに描いています。

「負傷兵」(制作一九九七年)縦113横146油彩。「日中戦争(一九三七年【昭和一二年】七月七日〜四五年八月十五日)が始まって二年くらいたった時です。負傷兵を集めている所に私たちが行った時に担架に乗せられて運ばれているこの負傷兵と目が合ったときドキッとしました。強く、気の毒なぁと思ったけど戦場ですからね。日本の歩兵の人たちです。私たちは弾薬運びですから。この人たちは一線で、敵と戦ったわけですからね。私たちは元気でやれているでしょうが、半死半生ですからね。」絵は、担架に載せられ運ばれる負傷兵と見る側との目が合って逸らすことができません。

これらの作品を中心に、招集から敗戦、帰国、上陸と時系列で、去年の鹿屋市での展示作品「桜島 引き揚げ帰国」「引き揚げ帰国 上陸(一九四六年三月五日)桜島」も展示します。他に、昭和一一年から一二年にかけてのスクラップブックから遺言ともいえる沢山の言葉を貼り付けようと考えています。「髪を私の好みのままにのばすことはどれほど私にとって都合が悪く損かしれない。といふのは私の髪の形をある人達をのぞく他一般の人々は好まないからである むしろ嫌ふのである。
しかし私は恐れない。人の悪口みたいな言葉をむしろ喜ふといふのは、その言葉は 私をなほ一層強くしてくれるからです。そしてその人達に対して感謝したい気もしないでもない。のばす以上はあの形を好む故しなければのばさぬ方がましだ。昭和一二年元旦正直」戦時色濃い中で、このスクラップはどのようにして難を免れたのか。年の暮れや、元旦に集中しているのは、京都「画箋堂」で働きながら須田国太郎に師事し絵の勉強をしている頃、年末年始の休みに帰省していた時だけに記録したのか、実家の米びつの下に隠したのか、今となっては尋ねることもできずミステリーです。男は丸坊主の時代に職場の店主も家族もハラハラしたのではと想像します。

作品展「八月一五日の空・敗戦」は、八月八日〜一三日、宮崎市「宮日会館」で開催です。