十連寺柿 (じゅうれんじがき)
絵 : 坂本正直 文 : 川原一之
樹齢130年の十連寺柿の大木に、青い葉がつき始めたころのことでした。
右目は失明、左目の視力は0.01、そのうえ呼吸器に障害をもつ鶴江さんが、月明かりの夜道をぽっつりぽっつり、1キロ半離れた健蔵さんの家までやってきました。
「健蔵さんも知っての通り、わたしゃ鉱山の煙を吸うて、こげな病気持ちになってしもた。 わたしの病気を公害と認めてもらうために、運動をはじめたところじゃが、ぜひ協力してはくれんの」
鶴江さんは大正10年に、土呂久鉱山の長屋で生まれました。
そのころ鉱山では、亜ヒ酸という猛毒物をつくる煙がもくもくとたち昇り、鶴江さんの住んでいた長屋へ、年中襲いかかっていたのです。
毒煙にやられた鶴江さんは、幼いころから目や皮膚や呼吸器など全身の病気で苦しみつづけ、五十路を前にして、とうとう医者から見放されてしまいました。
「目と呼吸器の病気は、生涯根治の見込みはなし」と。
「死のかなー」
一人暮らしの心細さも手伝って、鶴江さんはすっかり、行く末を悲観してしまいました。
そんな時です。 水俣病やイタイイタイ病や四日市公害の患者が裁判を起こした、というニュースが、電波に乗って、山奥のむら土呂久まで運ばれてきたのです。
「そうだ。 わたしも公害患者なのだ」
目を開かれた鶴江さんは、勇気を奮ってたちあがると、一人で公害証明書を作り、土呂久50世帯すべてから署名をもらって歩くことにしました。
鶴江さんの話を聞いた健蔵さんは、こころよく署名に応じました。 喜んだ鶴江さんは、帰りぎわ、健蔵さんの妹で、寝たきりの病人アヤさんの枕元に座ると、「アヤさんも公害患者。 仲間に入って、一緒にやろうじゃねえの」
鶴江さんの一言が耳に残って、アヤさんはその晩、一睡もできませんでした。 幼いころからの思い出が、走馬燈のようにぐるぐると頭の中をかけめぐったのです。
あれは、アヤさんが5つのときのこと。
3つ年下の弟、時蔵が胃腸の病気で死んでいきました。
時蔵はブブブブと言って、よく水を欲しがる子でした。 そうかと思うと、お腹が痛いと泣いては、子守りのアヤさんを困らせていました。
あのころ、時蔵が飲んでいた水。 それは、鉱山のすぐ下から引いた用水の水でした。 その水を引いた田んぼは、ブスブスブスブスとたぎりあがって、稲の根が腐れてしまうのです。
あの水には、鉱毒がまじっていたに違いありません。 そうとは知らず、アヤさんの一家は半世紀も、毒の水を飲み続けたのです。
アヤさんの家の田んぼの脇に、十連寺と呼ばれる甘柿の大木があります。 鉱山が盛んなころ、まったく実をつけなくなった柿の木を、「風呂たきの薪にするから売ってくれ」と言ってきた人がいました。
アヤさんの母親は、「鉱山の煙のせいだから、煙がやまれば、また実をつける」と言って断りました。
やがて母親は死んでしまいましたが、その言葉の通り、鉱山が廃止されると、十連寺柿は再び、枝もたわわに甘い実をつけ始めました。
煙にやられたのは、柿だけではありません。 大豆、椎茸、カボス、蜜蜂などが全滅し、牛や馬もバタバタと死んでいったのです。
アヤさんは8歳のとき気管支の病気にかかってから、胃腸、肝臓、膀胱、心臓、鼻、肺、神経‥‥‥ありとあらゆる病気に苦しめられ、そのため結婚もできませんでした。 医者にみてもらうお金がなくて、薬草を飲んですごした日日もあったのです。
「これもみな、公害が原因だったのだ」
鶴江さんの話を聞いたアヤさんの心の中に、そんな確信が生まれました。 それでも、鶴江さんといっしょに運動を始めることには、ためらいがありました。
「10年以上も寝たきりのわたしが仲間に入れば、鶴江さんの足手まといになるばっかり」
鶴江さんの仲間は8人にふえましたが、その運動は赤ん坊のよちよち歩きのように、思い通りには進みませんでした。 運動がいきづまったとき、願ってもない協力者が現れました。
岩戸小学校の先生たちが、埋もれていた土呂久公害の掘り起こし調査にとりかかったのです。
「50年間に、100人近い住民が、平均寿命39歳の若さで死んでいった!!」
衝撃的な調査結果が、宮崎県教組の教育研究集会の場で発表されました。
マスコミは驚いて、このニュースを大きく報道し、あわてふためいた宮崎県公害課は、さっそく土呂久住民の健康調査を始めました。
それから8ヶ月後、鶴江さんに待ちに待った知らせが届きました。 鶴江さんをはじめ7人の住民が、慢性ヒ素中毒の患者として認定されたのです。
宮崎県知事の乗った黒塗りの乗用車が、土呂久のがたがた道を登ってきたのは、蝉しぐれまっ盛りの時期でした。 鶴江さんの家を訪ねた黒木知事は、両手をついて、深深と頭をさげました。
「会社との補償の斡旋を、このわたくしにおまかせください」
鶴江さんの目に、黒木知事がまるで神様のように見えました。
「わたしゃ、これで救われた」
その年の暮れ、外部との連絡を絶った旅館の一室で、県知事による斡旋がおこなわれました。
県の役人から三百万円の斡旋をのめと執拗に迫られた鶴江さんは、あまりに額が低いので、首を横に振りつづけます。
「目と呼吸器の病気で五十年苦しみつづけたわたしは、そんな低額では納得できません」
「検診の結果、ヒ素の影響が認められたのは皮膚の病状だけ。 だから安いのだ」
県の役人は、「皮膚以外の病気は公害ではない」とつっぱねて、無理矢理、鶴江さんに低額の補償を押しつけたのです。
知事斡旋が終わると、鶴江さんは途方に暮れてしまいました。 それまで受けていた生活保護を打ち切られたために、300万円の補償金を毎日の生活費、通院費、治療費にあてなければなりません。 このお金を使い果たしたあとは、いったいどうやって暮らしていけばよいのでしょうか。
「神と頼んだ知事さんに裏切られた!」
鶴江さんは失意のどん底に突き落とされてしまいました。
そんなとき、アヤさんもまた希望を失いかけていました。 しだいに増えていく認定患者の中に、アヤさんの名前がなかったからです。 気落ちしたアヤさんを、岩戸小学校の齋 藤正健先生が励ましつづけました。
「きっときっと応援してくれる人たちが現れる。 アヤさん、くじけずに頑張ろう」
病状が重くなって高千穂町立病院に入院したアヤさんは、手記を書いて、病床から悲痛な訴えを始めました。
「全国の皆様、見て下さい。 永年の病床生活のありのままの告白を聞いて下さい。 支えて下さい。 認めて下さい‥‥‥」
カトリック信者の生熊来吉さんの呼びかけにこたえて、全国の信者がアヤさんのもとへ千羽鶴を送るようになりました。 支援の輪はさらに広がり、「鉱毒患者を見捨ててはおけない」として、被害者を守る会が結成されたとき、アヤさんは、「百万の味方ができた」と喜んだのです。
その喜びも束の間、いちばん頼りにしていた兄の健蔵さんが、肺ガンのために死んでしまいました。
「兄さんに先立たれて、一人で生きていく力のないわたしは、どうすればいいの」
うちひしがれたアヤさんを、健蔵さんの息子の慎市君と哲郎君が、交代で看病して支えました。
「いつまでも、この子たちの重荷になるわけにはいかない。 一日も早く認定をとって、安心して治療と生活が送れるようになりたい」
アヤさんの願いは切実でした。
被害者の会の副会長になった鶴江さんは、救援を求めて、全国を飛んで回りました。 その訴えに心を動かされ、まず日弁連の公害対策委員会が、次いで岡山大学と熊本大学の二組の自主検診団が、土呂久へ乗り込んできました。
法律と医学の専門家の調査は、患者の願いを踏みにじった斡旋がまったく不当であることを、はっきりと証明してくれました。
また、認定基準が狭すぎることも、はっきりと指摘してくれました。
一度は絶望した鶴江さんに、再び勇気がわいてきました。
「会社に補償をやり直させよう!」
入院中のアヤさんへ、鶴江さんから手紙が届きました。
「アヤさん、弱気は捨てて立ち上がろう。 正義は勝つ。 世間がなんと言おうと、勝利を得るまで戦いましょう。 お互い励ましあい、助け合っていきましょう」
文末に、鶴江さんの作った歌。
今日は冷たき雪時雨 病院の友よ寒かろう かぜを引くなよ熱出すな
アヤさんも歌を添えて返事を出しました。
あたたかき友の情の身に沁みて白き ベッドに涙溢るる
友情の往復書簡によって、認定を願うアヤさんと、補償のやり直しを求める鶴江さん、二人の気持ちがぴったり一つに重なりました。
鶴江さんが知事斡旋で煮え湯を飲まされてから、2年が過ぎた年の暮れのことでした。
行政にいいようにあしらわれてきた被害者が、ついに反撃に転ずる日がきました。
第3次斡旋の席上、仲治さん、数夫さん、ミキさんの3人が、「患者切り捨ての斡旋案は拒否する」と叫んで、低額の知事斡旋を蹴ったのです。
この3人に残された道は、裁判によって被害者に納得のいく補償をかちとる道、ただ一本しかありません。
鶴江さんが夢にまで見た裁判の道を、仲間たちが切り開いてくれました。 鶴江さんは喜んで、原告の一人に加わりました。
被告は住友金属鉱山。
知事斡旋では、行政を隠れ蓑に使って、裏でこそこそ動いていた加害企業を、やっと白日のもとに引きずり出す日がきたのです。
この会社は日本有数の鉱山企業でありながら、少しも堂々としたところがありません。
土呂久鉱山を子会社に経営させて、鉱毒をまき散らしていたにもかかわらず、鉱毒事件が表ざたになると、「操業したことはない」と知らんぷり。
そんな逃げ口上は、法律的にもまったく通用しません。 鉱業法は明確に、鉱害の発生した鉱山では、鉱業権を持ったことのあるすべての会社に連帯して賠償する責任がある、と定めています。 最終鉱業権者の住友金属鉱山がその責任を負うのは、きわめて当然です。
提訴の日がきました。 原告は、第1次斡旋の雪辱に燃える鶴江さんと秀男さん、第3次斡旋で怒りを爆発させた仲治さん、数夫さん、ミキさん、認定を目の前にして死んだ勝さんの遺志を継ぐトネさん。
6人は、「半世紀にわたる鉱毒の苦しみを、住友金属鉱山に完全に償わさせる日まで戦います」と、固い決意を表明しました。
裁判を支援するために、宮崎県労評を中心にして、訴訟共闘会議がつくられました。 共闘会議とカトリックの援助のおかげで、患者は訴訟費用の不安なしに、裁判を進めることができたのです。
第1回の口頭弁論が開かれたのは、十連寺柿が青い葉をつけたころのことでした。
原告団を代表して、鶴江さんは、「裁判長、わたしたちは、たとえ根治の見込みはないと言われましても、生きていく権利があります。 また、生きとうございます」と、声をふるわせて訴えました。
鶴江さんが一人で署名をとって回った日から、まる5年が過ぎて、ようやく念願の裁判が始まったのです。
そのころ病床のアヤさんにも、希望の光が差し込んできました。 甥の哲郎君が息せき切って、アヤさんの病室へ駆け込むと、「アヤさん、認定の通知が届いたよ!」
その喜びはたちどころに、深い苦悩へと変わっていくのでした。
いっしょに認定された患者たちの間で、知事に斡旋を頼もうという動きが起こって、アヤさんにも親類から、斡旋に加わるよう強い圧力がかかってきました。 これまで親身になって世話してくれた守る会は、企業責任をあいまいにした知事斡旋には反対です。 迷っていたアヤさんは、斡旋派の代表から即座に決断を迫られ、やむなく、「斡旋に加えてください」と返答してしまいました。
胸が痛みました。 プルプルと体が震えました。
「守る会に、申し訳がない」
斡旋が行われたその年の秋、十連寺の柿は、ほとんど実をつけませんでした。
斡旋でアヤさんが受け取ったのは4百万円。 闘病に明け暮れた人生の代償として、アヤさんが要求した金額の5分の1にも満たなかったのです。
半世紀うらみはこもる補償金受けて哀しや命の代価
黒木知事にいだいていた期待を打ち砕かれて、アヤさんは途方に暮れてしまいました。
そんなとき、守る会の落合正会長が見舞いにやってきて、「アヤさんも裁判の仲間に加わらんかな」
その言葉に、アヤさんの目が輝きました。
看病に来ていた甥の慎市君も、「アヤさんがやると言うなら、どこまでも応援するばい」と、きっぱり言いました。
アヤさんが提訴の気持を固めたころ、鶴江さんが町立病院に入院してきました。 呼吸器の症状が思わしくなくなったのです。
鶴江さんがアヤさんの病室を訪ねては、お互いに励ましあう日がつづきました。 やがて、その足も途絶えがちになり、ほとんど目の見えなくなった鶴江さんは、延岡の長女のもとに引きとられていきました。
痛みなく永遠に眠ればごくらくの みだの元へは何時行ける
極楽往生を願う歌を残して、鶴江さんは、この世を去ってしまいました。 自分が始めた運動の結末を、見届けることのできないまま。
葬儀のいとなまれた土呂久の谷には、秋の気配がそっとしのび寄っていました。
両手の自由のきかなくなったアヤさんは、勝利の判決だけを生きがいにして、闘病生活をつづけていました。
裁判には、長い長い時間がかかりました。
見舞いにきた支援者が「来年こそ判決」と励ますたびに、アヤさんはさびしく笑って、「その来年がいつくるともしれん」と言うのでした。
アヤさんの命のあるうちに、とうとう判決の日は訪れませんでした。
「せめて判決を聞くまでは」と振りしぼってきた気力も萎えて、帰らぬ人になってしまったのです。
原告患者23人。 そのうち、判決の日を待てずに亡くなった患者14人。
喉頭ガンにかかった数夫さんは、まるで生き地獄の苦しみようで、「頭をたたき割ってくれ」と悲鳴をあげながら死んでいきました。
肺ガンになった仲治さんは「裁判を頼む」と言い残して、無念のうちに死んでいきました。
膀胱ガンのハルエさんは「裁判に勝ったら、ゆっくり温泉で治療したいね」という願いもむなしく、死んでしまいました。
秀男さんの死因は尿管ガン。
その母親のクミさんは「裁判の結果を、あの世の秀男に伝えるのがわたしの役目」と口癖のように言いながら、全身をガンに蝕まれて、死んでいったのです。
提訴から、なんと7年2ヶ月もかかって、やっと結審の日が訪れました。
原告を代表して最後の訴えに立ったのは、「女三羽ガラス」と呼ばれるトネさん、ミキさん、ハツネさんの3人です。
「原告の半数が裁判の半ばで死んでいく公害裁判が、これまでにあったでしょうか。 その死因の半分がガンという痛ましい公害事件が、これまでにあったでしょうか。
これもみな、必要のない証人を次々と立てて、わざと裁判を長引かせ、患者に苦しみを加えてきた被告、住友金属鉱山の責任にほかなりません」
同じ裁判長のもとで同時に審理された松尾鉱毒訴訟は、一足先に患者全面勝訴の判決が言い渡されました。 松尾の患者はただちに上京し、被告の日本鉱業と直接交渉をおこない、完全勝利の協定を結ぶこともできました。
「松尾につづけ!」を合言葉に、土呂久の被害者の会は、裁判を迎える準備に入りました。
鶴江さん、アヤさん、数夫さん、仲治さん、秀男さん、ハルエさん、クミさん、勝さん、健蔵さん、五十吉さん、仁市さん、敏安さん、政喜さん、高雄さん、
無念のうちに死んでいった仲間たち。 その願いをかなえようと、十連寺の大木は、千手観音の腕のように、八方に広げた木の枝いっぱいに、豊かに柿の実をつけました。
判決は1984年春のことでした。 裁判長は、患者の主張を全面的に認める内容を言い渡しました。
しかし、被告の会社が控訴したため、裁判はさらに長期におよび、1990年に最高裁で和解して終結しました。 鶴江さんのお墓には「たとえ根治の見込みはないと言われましても、生きていく権利があります。 また、生きとうございます」と、裁判所でのべた言葉が刻まれています。
(おわり)
参考:佐藤アヤ著 「いのちのかぎり」
佐藤鶴江遺稿集 「生きとうございます」
坂本正直は、2回の戦争から帰国すると中学校の美術教師をしながら精力的に活動します。
川原一之さん作「十連寺柿」を紙芝居に頼まれ制作しました。
宇井純さんの助言で、電気の無い所でも伝えることができるように紙芝居仕立てにしました。
現在、紙芝居「十連寺柿」は土呂久で語り部をされている佐藤マリ子さんの所にあります。
次の世代に伝えること、無かったことにしないこと、その思いは脈々と受け継がれています。
特定非営利活動法人アジア砒素ネットワーク|紙芝居:十連寺柿
土呂久砒素のミュージアム|土呂久図書館
ウィキペディア(Wikipedia)|宇井純
1992年9月22日にタイで「十連寺柿」の紙芝居が上演されました。
2020年秋に宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校の生徒さんたちに「十連寺柿」の紙芝居が上演されました。