坂本正直 長女 所薫子による制作順作品解説 (Facebook アートスペースかおるより)
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2023年1月29日
無くなったと思っていた坂本正直作品が、画集の中にありました。
『画集•わたしの戦争体験の記録』1977年8月13日~24日宮崎県総合博物館で開催した時のモノクロ画集の中です。戦地から送ったカット新聞掲載記事もこちらに載っていました。宮崎空襲で焼失した油彩もこちらにありました。多分、当時は印刷技術が今のように高くなく、カラーは色が思うように出ないと考えたかと思われます。夏の一番暑いときに、敗戦記念日に併せたと考えられます。もしも今、生きて元気だったらどう行動しているでしょうか。画集はこちらです。よろしければご覧ください。
『画集•わたしの戦争体験の記録』
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2023年2月10日
坂本正直は1950年後半からストロークの抽象作品を描き続け(1)、60年代には点描のような作品に移行し(2枚目)、黒の時代を経て、70年代には抽象の戦争シリーズを描き始めました。(3枚目)そして90年代になると子どもが観てもわかるような「馬がこうして吊り下げられて輸送船にのせられたんだよ」戦争は二度と繰り返すんじゃないよと絵を通して語り継ごうとしたかと考えられます。
作品目録
作品を年代順に並べています。作品名をクリックしていただきましたらそれぞれの作品をご覧いただくことができます。
坂本正直記念館ホームページの中のアルバムを少し下にスクロールしていただきましたらこの画像が出てきます。 (これは従軍カメラマンによる記録です。) 坂本は、カメラで捉えたのではなく、その時、自分の目のカメラで記憶したかと考えられます。
アルバム
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2023年2月19日
人間の顔と体が するめいかのようになって道路にへばりついていたいました。
その上を ほこりをかぶった軍用トラックが通過した 通過するたび ほこりのなかで動いているのが みえた
わたし共小行李の兵隊は ほこりをかぶりながら車輛をつけた馬の たずなを持っていた
出征して1年たった兵隊の神経は 平常でな
かったことは たしかです。
戦場で つくられてゆく精神状態は どんなものか どんなもので あったかを描いてみたかった
坂本正直「わたしの戦争体験の記録」p28より
【2枚目】「マリノ•マリーニ展」のポスターの下に「戦争─ (人間の命)」が見えます。
【3枚目】こんな狭い場所で200号を描いていました。
87歳のときです。ポスターは撮影するのに壁に貼っているのをわざわざ外して画布の上に掲げたかと思われます。
【4枚目】この頃は、まだまだ美術館で写真を撮ることは許されていませんでした。「いっちゃが、いっちゃがー」と自分の展では、どんどん撮っていました。撮っている人を撮って、それをまた撮っているユーモアのある父の記録をずっとして下さった橋本誠一さんです。
『坂本先生の個展を顧みて』
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2023年3月4日
坂本正直は1960年代~70年代にかけてモダンアート作品を制作。
ある程度の構図は考えていたものの制作に入ると思いをぶつけるようにストロークや点を集中的に描き続けました。
70年代後半になると黒の時代を経て「わたしの戦争体験記録」を描きました。1996年救いを求めるように「玄奘三蔵法師 求法の旅」の作品を描き上げました。その作品が高鍋町美術館に収蔵され3月26日まで展示されています。ご高覧頂けましたら幸いです。
高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」に子ども劇団の子どもたちが団体で来館されました。
玄奘三蔵法師 求法の旅 (1996年6月12日~23日) 宮崎県立美術館 県民ギャラリー
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2023年3月11日
坂本正直の作品を郷里の方々が中心となって、「ふるさと生目二人展」を開催してくださることになりました。
4/14(金)~23日(日)宮崎市「生目の杜游古館」です。
ご高覧頂けましたら幸いです。
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」開催のお知らせ
高鍋町美術館は、3月26日までです。
高鍋町美術館常設展「坂本正直 玄奘三蔵法師の旅」開催のお知らせ
過日、作品を観てくださった子ども劇場の上演が先日開催されました。
子ども劇団空風スマイルシアター演劇公演「たび TABI」のお知らせ
【1枚目】左下に見えるのは、兵士の星一つ軍服です。いつも馬たちと一緒に貨車や船に乗せられました。
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2023年3月19日
坂本正直は、1973年8月8日~19日ルイ画廊にて個展を開催。
同時に発行された図録に美術評論家:朝日新聞編集委員の源弘道さんが、文章を書いてくださっています。
よろしければ、クリックして開いてください。
坂本正直個展 図録
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2023年4月13日
「ふるさと生目二人展」が4月14日(金)より始まります。
土呂久公害の紙芝居「十連寺柿」コピーも展示されます。
(画像は、アートスペースかおるで開催時の案内状です。)
ご高覧頂けましたら幸いです。
ふるさと生目二人展「坂本正直•髙橋和平」開催のお知らせ
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2023年5月1日
宮崎での展を無事、盛会に終えることができました。
ご高覧下さった皆様、ありがとうございました。
宮崎日日新聞が大きく掲載くださいました。
宮崎日日新聞に当サイトが紹介されました。
会場に展示された作品の一つ、1950年代頃と思われます。裏にも絵が描かれています。何が描かれてあり、何を現わそうとしたのでしょうか。
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2023年5月28日
坂本正直は、ある時期から記録として絵を描くようになります。
画像2作品は今は閉館となっている「みやざき歴史文化館」に所蔵されています。
みやざき歴史文化館所蔵作品
画像4枚目は、この度、絵画教室に所蔵されました。
若い方に観て頂けることを願っています。
2011年に「ギャラリー島田」さんで開催させていただいた「光を求めて 坂本正直展」の案内とリンクを掲載しました。
光を求めて 坂本正直展 (2013年5月11日~16日) ギャラリー島田
【2枚目】1944年頃の高千穂通
跨線橋だけが焼け残った
〇 (通称丸通、日本通運) か駅前にテントを張って
昭和23年3月10日
みやざき歴史文化館 所蔵
【3枚目】心にのこっている景色
大正から昭和のはじめごろ
平成十五年秋作
2003年
以下は裏面記載
ふるさとの夕暮れ
(少年のころみた)
‘98─’99作
「馬と私」坂本正直展に展示
県立美術館 1999年
ふるさとの風景が、変わることを執念とも思える気持ちで描いていることが伺えます。
絵の解説も付けています。記録として絵を描いていることが伺えます。
戦争で、自然災害で、開発により風景は変わってしまうことをこの「歴史文化館」に期待を持って寄贈したことが伺えます。今は閉館となり誰に見られることも無くなりました。
美校の願書をもらって準備をしていたら、召集でした。
召集がなかったら受験していましたし、私の人生も変わっていたかもしれませんね。1937年(昭和12年)の7月でした。
父から電報を受け取って宮崎に帰ったとき、少しも変わらない風景が迎えてくれたことを今でも思い出します。
輜重兵として中国を転戦し、’40年に除隊になりました。
戦争の時代のなかで
坂本正直は古里の風景は、自然災害、戦争、開発により変化してしまうことを執拗なほどに記録として描き後世へ伝えようとしました。
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2023年6月25日
坂本正直は、”出征して1年たった兵隊の神経は平常でなかったことは確かです。戦場でつくられていく精神状態はどんなものであったかを描いてみたかった。”と記しています。
わたしの戦争体験の記録 坂本正直展 (1977年8月13日~24日) 宮崎県総合博物館 (特展室) パンフレット
【1枚目】人間の顔と体が するめいかのようになって 道路にへばりついていました。 ほこりをかぶった軍用トラックが通過した 通過するたびに ほこりのなかで動いているのがみえた わたし共小行李の兵隊はほこりをかぶりながら車輛をつけた馬の たずなを持っていた。
坂本正直は、1976年から77年にかけて、作品展の準備を克明に記録しています。新聞の切り抜きなども貼っています。
わたしの戦争体験の記録 坂本正直展 (1977年8月13日~24日) 宮崎県総合博物館 (特展室)
坂本正直は「負傷兵」を描いた1997年にいくつも誰が観てもわかるような、子どもにもわかる絵を描こうとしたことが伺えます。敗戦後、鹿児島の錦江湾から上陸した時のこと。「1946年3月5日帰国上陸─鹿児島」 「引揚げ帰国 桜島─雨」 引き上げ船内の様子。「引揚げ者•船内」 これは仕上がってないと思いますが様子はよくわかります。 日豊線に乗って宮崎駅にたどり着き様変わりしたふるさと。高千穂通を西向きと東向きに描いています。「家へ•高千穂通りを西へ」 「RTO.跨線橋•宮崎駅」 生家に着く前「牛の話で父の生存をしる」 84歳の時です。自分はいずれ死んでしまうけれど、これらの絵を前に、経験した人たちに語って欲しいと考えたのではと思います。「戦争を二度と繰り返さないように」遺書のようなものかと思います。
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2023年7月8日
画像は2014年『坂本正直展』準備の為に所属する学校の美術部学生が、運び出しを手伝ってくださったときのものです。
坂本正直は母校から依頼を受けた時に、意識的に3枚の絵を選びました。
敗戦1年後、宮崎へ戻った時の焼け野が原の宮崎の風景の絵。元宮崎大学農学部のユーカリの樹がコンクリで固められ瀕死の状態になっている絵。作品展後コンクリが外され、生き返った様子の絵。快く手伝ってくださった美術部顧問の先生や職員の方々、学生さんたち、改めてありがとうございました。2012年にも手伝ってくださった美術部学生さんもいます。今は大学も卒業されて、どうされているでしょうか?坂本正直は、戦争を二度と繰り返してはならないこと、体制に屈しないで動くこと、動いた時に変わることを絵を通して伝えようとしました。防風林のように役目を果たしていた沢山の木々が無くなり、今はどうなっているのでしょうか。気になるところです。
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2023年7月15日
坂本正直は梅雨の湿気の多い時期に、画箋堂から取り寄せたキャンバス2巻くらいを200号位の木枠に一気に何枚も張っていました。
次に100号、70号、最後にはサムホール、そしてそれでも取れなくなるとひも状にして使用していました。94歳の頃も一日ほとんど立ち通しで描き続けていました。
勝哉号はここにおけ
1937年11月 杭州湾に上陸してから泥濘の道と急行軍で弾薬を積んだ輓馬車輌をひくことができなくなった。
勝哉号は、小行李の部隊について歩くのがようやくとなった。
南京の近くで起伏の多い野原であった。
そこに、勝哉号をとうとうおくことになった。
夕陽が野原を斜めに照らしていた。こがね色の空に立ってこちらを見ている勝哉号を振り返りふりかえり別れたわたしは部隊に追いつくために急いだ。
資料提供 : 都城市立美術館
※ 都城市立美術館所蔵の「南京で別れた日」裏に上記の文章が書かれています。
勝哉号 1937年(昭和12年)徴用
飼主 上村清之進 都城市下川原2丁目
坂本正直は、勝哉号を主題にした絵を多く描いています。
都城市立美術館にも「雨の日」「クリークの月」があります。
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵
勝哉号はここにおけ
こちらの画像は、絵を観た友人が同じような光景の写真があるとアルバムを持ってきてくれ提供してくれた画像です。馬も過酷な運命を背負わせられる戦争。敵国と教えられた国の広大で美しい風景。坂本は繰り返し繰り返し、物語のようにわかりやすい絵を描き続けました。
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2023年7月22日
猛暑お見舞い申し上げます。坂本正直は団扇を何本も描いています。
何時頃描いたものかは定かではありません。(個人所蔵)
須田国太郎さんに師事していた時に、須田さんがご自分で描かれた絵の団扇を使っておられて、それをもらい受けたのがきっかけになっているかもしれません。それは戦後、父自身が団扇から外し額装しました。現在は、立命館大学平和ミュージアムに所蔵されています。今年10月頃、リニューアルオープンします。興味のある方は見て頂けましたら幸いです。
立命館大学国際平和ミュージアム所蔵作品
こんなのも描いています。絵を描くことが何より好きだったのでしょうね。
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2023年8月3日
坂本正直は目も見えにくくなるなかで、遺さなければと昭和55年頃(1980)の風景を95歳の時に描いています。今、この風景はありません。90歳で描いた「えのき」もありません。船艇から観た空も克明に描いています。
坂本正直記念館の没後から辿る作品画像のページです。
没後から辿る作品紹介
西暦年号の横に坂本正直の年齢を併記しています。
【1枚目】23という数字は、23連隊のことでしょうと研究者の戴国威さんより教えて頂きました。兵隊と馬が一緒に寝起きしていたことを描いているかと思います。
【2枚目】遠く霧島連山が望めます。昭和55年(1980)頃まで、こんなのどかな風景が広がっていたことに改めて、愕然とします。坂本正直は、インタビューの中で「自然は、災害や戦争や開発によって変わってしまいます」というようなことを語っています。
【3枚目】坂本正直が子どもの頃から眺め、私自身も幼い頃眺めた記憶があります。随分長い間あったように記憶しますが、現在は無くなっています。
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2023年8月12日
2003年、坂本正直、89歳頃。「安井息軒記念館」が建てられる前、何年頃に依頼があったのでしょうか。坂本は明けても暮れても文献を読み、資料を研究していました。ある時は従兄の甥にポーズを取らせてスケッチをしたり(竈の絵)していました。安井息軒をきれいごとに表現しないように苦慮していました。遠景に双石山を入れ子どもの絵日記のような描き方で表現しました。同じころ描いた『火山地帯』表紙絵とは、まるで表現が違います。子どもたちに安井息軒に関心を持ってもらいたい。自分たちの郷里にこんなに立派な人がいたことを伝えたいという気持ちの表れかと考えられます。美しい自然と平和が続くことを祈りを込めて描いているかと思います。
宮崎市安井息軒記念館所蔵作品
桜島との出会い
坂本正直
「火山地帯」一〇〇号の表紙絵に、桜島を描いてほしいと、島比呂志さんから、相談があったのは、九〇号がでたころであったろうか。私は、火山の代表的な山、桜島を表紙絵として描く構想をねることを始めた。
桜島の山容を、鹿児島の街から見たのを描くのではなく、桜島の御岳の山頂、谷間、山襞を描きこむために、九二年の二月、宮崎から列車ででかけ姶良駅で下車、駅近くの踏切をとおり、鹿児島湾の海の方角への道を行った。その時、下校途中の小学生の男子二人が道案内をしてくれた。
桜島がよく見える場所に早く着くため、重富でバスに乗った。桜島がよく見えだしたあたりで、適当なバス停を運転手にたのんだ。おりた所は、竜ヶ水大崎であった。
桜島は、前の時よりもかすんで見えたが、雲間から陽がさすと、谷の強い形の変化、山の重なりぐあいが見えた。画面の構成上で必要なところを確認して写生した。また、カメラで記録をとった。
桜島と私の出会いは、大正三年 (一九一四) 一月。大爆発で火山灰が西風にのり、宮崎にとんできた時、あかんぼうの私の頭に灰をかぶった話を何度か聞いた。小学六年の修学旅行は鹿児島で、桜島と対面している。桜島爆発の絵はがきを買ったのが記念品としてある。
終戦のつぎの年の春、引揚船 (駆逐艦) の甲板から噴煙をうすくあげている桜島を錦江湾でながめた。上陸した鹿児島の街は、焼け野が原となっていた。焼けぬけたビルで、親たちのことを心配しながら、引揚者として数日すごすことになった。
桜島は静かにうすい噴煙をあげていた。
(「火山地帯」一〇〇号 (平成六年一〇月一日) )
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2023年8月18日
坂本正直85歳頃(1999年) 「馬を輸送船にのせる」様子を克明に描いています。今でこそ動物愛護の観点から言われますが、当時は当たり前のように馬たちも翻弄させられました。坂本は、その時のことを目のカメラで捉えた記憶から克明に描いています。
3点目はモダンアートに出品した作品です。最後は敗戦で郷里に帰った時の記憶を描いたものです。生家の向こうには、大淀川とその向こうに自分の先祖が祭られている寺が見えます。この風景は、戦後20年近く変わらずにありました。今は最後の赴任地の八代中学校に所蔵され、学生さんたちに観ていただいています。
没後から辿る作品紹介
抽象の絵をずぅと60年代70年代描いていて、その中で観た人から(子ども?)素朴な質問があったのかもしれませんね。そこで絵本の挿絵のような絵が必要かもしれないと考えたかもしれませんね。絵本も何冊か描いていますが、描く時には描くことに熱中して楽しんで描いていると思います。83歳から85歳くらい、エアコンも無い部屋で、一日中ほとんど立ち通しで描いていたかと思います。
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2023年8月27日
1956年の坂本正直(42歳)の作品の一部です。同じ年の8月5日のことを「どぜう」に描いています。最後のページに”1956.8.28には出せる”と記しています。お世話になった木村太郎さんへ送りました。
戦争から戻って戦争のことは語らず、中学校の美術教師をしながら「二度と子どもたちを戦場へ送らない」など精力的に活動していた坂本正直を心ある方々が暖かく支えて下さったのだと思います。「どぜう」の全編を下記からご覧いただけます。
『どぜう』
晩年の正直に、そっくりです。これを描いたときより半世紀生きています。
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2023年9月23日
坂本正直は、85歳の時、1999年9月15日~19日「馬と私」開催。
“従軍体験、馬の生涯をみた作品など 勝哉号は都城の徴用馬で行動を共にした。宮崎競馬場のトヨセ号の姿の思いで”
馬と私 坂本正直展 (1999年9月15日~19日) 宮崎県立美術館 県民ギャラリー
「競技場の杉」です。現在「JRA宮崎育成牧場」に所蔵されています。この風景は今はありません。檍中学校へ勤務の頃、朝夕、自転車に乗って通勤しておりました。こんなに美しい風景があったことを絵にしたかったのだと思います。何点か朝夕の風景が描かれています。戦後間もないころで、学校には親のない方や色々な家庭状況の子どもさんたちがいました。
JRA宮崎育成牧場所蔵作品
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2023年10月7日
坂本正直は、1974年頃から馬の眼を描こうとしています。
「馬の眼」を主人公にして、戦争や不条理をみていたと表現したのでしょうか。現在の世の中を「馬の眼」は、どうみているのでしょうか。
加害性告発と考えられる作品
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2023年10月15日
坂本正直は1980年代、精力的に戦争加害告発作品を描いています。
描かずにはおれなかったかと思います。
立命館大学平和ミュージアムに所蔵されています。
リニューアルオープンされました。
貴重な資料が沢山所蔵されています。
是非、足を運んでください。日曜日は休館です。
立命館大学国際平和ミュージアム
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2024年1月31日
坂本正直の「断簡」に思いでとして”昭和十七年七月二十九日” “絵を許されし日を思い出し”とあることから知ることができます。
ペンネームを「麦村」とするか「麦人」とするか書いています。
台湾でのことも克明に描いています。興味のある方は、こちらを開いていただけましたら幸いです。
「断簡2」
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2024年2月5日
坂本正直 1946年(昭和21年)の自画像です。その同じころに書いた『墨と筆』です。いずれも侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館 所蔵です。P64に”父はこの印をつげの木で作ってくれた.二十年三月六日正信長男正道”と記しています。またp71には”この蔵書印は父が何つ頃作ったものか知らない.(中略)自分と違い品あるものを持った印のように思われる。”p141に”絵を描く男は馬鹿である.”と書いています。 「墨と筆」 こちらから全文を読んでいただくことができます。142ページもありますが、興味のある方は読んでください。
坂本正直は、メッセージを祈りのように書いていたのでしょうか。
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2024年2月10日
坂本正直 1951年(37歳)3枚が一緒に額装されています。
2014年、当時宮崎県立美術館の学芸員3名と私の友人、知人、親戚、総勢10名くらいで、二日がかりくらいで300点に上る大作、小作品撮影記録したときの1作品です。前日は晴天の中、野外で。二日目は大雨の中、美術専用車の中で撮影と記録が続けられました。
2枚目のスケッチは、森芳雄さん。どのような状況でスケッチしたのかわかりませんが、坂本正直も同じように1955年に独立美術を脱退しています。
森芳雄 | Wikipedia
次の油彩「馬」は、出展した作品かと考えられます。
1952年頃に新聞連載小説のカットを描いていたようです。
「日向滑稽通信」 挿絵
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2024年2月17日
「旅」
坂本正直 (1947年) 昭和22年春と「旅」には何度も書かれています。
「建設」こちらは坂本正直が写した写真をスキャンしたものです。
いずれもどのような背景で描かれたものか詳しいことはわかりません。
現代では、パソコンでフォントを変えていますが、坂本は「勘亭流」等々内容によって文字を変えることを楽しんで書いたり描いたりしていたようです。2回の戦争から無事に帰国できた平和を楽しんでいるかのように感じられます。
坂本正直は、1980年にこの絵を描いています。
忘却の末にすべてが繰り返されることを懸念していたのでしょうか。
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2024年2月24日
坂本正直 年代順にと言いながらまたまた逆行します。
これらの絵がどのような状況で描かれたのかわかりません。
昭和11年12年頃です。後年製本したのかと考えられます。
台湾で出会った木村太郎さんが所蔵下さり、後ご長男の木村一郎さんが大切に保存して下さったればこそ今に至ります。
「流雲」 「戦塵」
よろしければ上記より全文をご覧いただけます。
昭和十二年十一月十三日 軍歴を観ると 南京(江蘇省)
説明
昭和12年11月5日~15日 湖東会戦に参加 11月18日~12月7日 南京攻撃のための集中及び追撃戦闘に参加 とあります。背景の山は何という山でしょうか。坂本正直は、自分の眼でカメラのシャッターを押すように記録、記憶したものを後年、強く印象にのこったこととして描いたかと思われます。現在のようにリアルタイムで戦場の様子を記録できる時代ではありません。中国の美術や歴史、建物、風景にも興味があって、それらが破壊される。聖戦と教えられてきたけれど、違う。侵略戦争だと思った瞬間ではないかと想像します。
坂本正直軍歴マップ
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2024年3月3日
坂本正直 1955年の自画像です。学校で教え子さんたちにも自画像を描かせていたかと思います。面白い表場をしています。学校の記念写真でも横を向いたり、教え子さんたちを写す時も「横を向いて」等々、言っていたようです。朝の挨拶も「ボンジュル」とか言ってボンジュル先生と呼ばれていたようです。
当時の記念撮影 アルバム
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2024年3月9日
1956年 坂本正直42歳の作品です。山口薫に師事した頃で、戦争のことは一言も語らず、勤務先の学校と絵を描くこと。
二度と子どもたちを戦場へ送らないことへの運動をしていた頃かと思われます。
1946年秋、木村太郎さんが訪ねてくださったお礼に「ふるさとを訪ねて」を描いています。100年後にどうなるかと予言めいたことを書いています。
鹿児島の錦江湾から春に上陸して、日豊線で宮崎へ。その年の秋に台湾でご一緒した木村一郎さんが、わざわざ東京から訪ねてくださったのですね。今のように飛行機がある時代ではありません。夜行列車に乗って長い時間をかけて来て下さって、そのお礼に父が描いたものです。それをご長男の一郎さんが大切に保管してくださったからこそ今があります。多分わかりにくいように黙するように抽象的に描いているのかもしれませんね。
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2024年3月16日
坂本正直1956年~57年頃の作品です。油彩は1点も見当たりません。
学校の子どもたちのことに没頭していたのでしょうか。
画像4枚目のスケッチには、わざわざ(孤独)と記しています。
私は、4歳、5歳の頃でわずかな記憶しかありませんが、引っ越しとかあったからでしょうか。
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